「ゴーン・ガール」/戦時下で加害者であり続ける毎日。

2015/01/20
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はい、これ、映画史に残る顔です。確実に何らかの賞を獲りますね。
デヴィッド・フィンチャー監督の映画「ゴーン・ガール」の主演女優、ロザムンド・パイクさんです。
覚えておきましょう。

さて、デヴィッド・フィンチャー映画のファンとしては、この「ゴーン・ガール」という作品は、「ソーシャル・ネットワーク」、「ドラゴン・タトゥーの女」と3本セットにして味わいたい作品だな、と思いました。

フィンチャーのこの3本は特に、「欲望」と「搾取」に対するアゲインストをわかりやすく描いた作品だと思うのですが、そういった点では、フィンチャー映画では常に社会というものを「欲望」と「搾取」が渦巻くネガティヴなものとして描いており、そんな社会の中で、欲望の餌食にならないように、搾取されないように生きてゆくためには、自覚的に加害者にならざるを得ないんだぜ、という、タフでマッチョなメッセージが感じられます。

フィンチャーの映画では、世の中というものは全然素晴らしいものではなく、強い者が自身の欲望を満たすために、常に弱い者から搾取し続ける過酷な環境であり、「正しい」とか「間違ってる」といったモノサシで評価すること自体が幼稚というか、滑稽に思えてしまうほど、残酷で厳しいものなんだ、という世界観で描かれています。

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「ソーシャル・ネットワーク」では、主人公の男の子が、この世界の中で評価を得ようと、ゲームのルールにのっとって頑張れば頑張るほど、自分の理想からどんどんかけ離れたクソ野郎(無自覚な加害者)になってゆきます。でも、観ていくうちに、ちょっと待って、彼って加害者なの?被害者なの?といった、よくわからない状態になっていき、最後まで主人公は無自覚のままエンドロールを迎えるわけです。(レディオヘッドの「クリープ」が使われている理由がよくわかりますね。)

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「ドラゴン・タトゥーの女」で、この世界観はより顕著になり、かなり濃い目に凝縮された小さなコミュニティの姿としてその世界が表現されます。環境に搾取されつづけた主人公の女の子は、自覚的な加害者となることでしか、その苛烈な環境をサバイブすることができません。もう一人の主人公のおじさんも傷めつけられた被害者でしたが、やがて女の子と「共犯関係」になることで、自身も自覚的な加害者になり、ようやくその状況をサバイブする。「共犯関係」とは、加害者同士を結びつける、いわゆる固い絆のようなものなのでしょうが、でもそれは闘いの中でしか機能しない一時的な結びつきなのだ、という、これまた切ない、薄情な結末でした。


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「ゴーン・ガール」では、これら上記2作品のさらに先に進んだ物語だと思いました。
うんざりするほど搾取され続けた女と、無自覚な加害者であり続けた男。
この映画は、この男女のデスマッチです。
さて、この二人が、どのようなカタチで関係を構築してゆくのか?

「ソーシャル・ネットワーク」で出た回答としては、「無自覚ではダメよ」という事。
「ドラゴン・タトゥーの女」で出た答えは、「共犯関係は戦時下じゃないと持続しないのよ」という事。

「ゴーン・ガール」の主人公である男女の設定は「夫婦」です。
「夫婦」というこれ以上ないミニマムな「世界」の中で、やがて自覚的な加害者となった者同士が共生することなんて出来るのか?

もし出来るとしたら、それは共通の「外敵」を作る、ということなのかもしれないね。
その外敵と戦い続ける事で「共犯関係」を持続させるしか無いのかもしれないね。

つまり、この世は毎日がクソみたいな戦時下である。
だから、自ずから加害者となり、闘いを続けるしか無いのだ。

という事が言いたいんでしょ、フィンチャーさんよ。



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