君と僕と5ドル原理主義、ふたたび。
2017/10/17

例えば、日本国内のすべての家庭の水道の蛇口を少しずつひねって水を出す。ひねり具合は家庭によって様々だ。チョロチョロもあればドバドバもある。そんな個々の家庭の水が玄関を出て、住宅地や横丁を出て、だんだんと一つの大河の流れになり、巨大な滝になり、観光名所となり、85インチ4Kブラビアに映し出され、暇を持て余した土日のお父さんたちがヤマダ電機で「おおすげー」というのだ。
なにを書いているのか、自分でもちょっとわかんなくなってきたが、要するに、この滝の源流のそれぞれは、ちいさな「つぶやき」だ。その「つぶやき」とは、ささやかな承認欲求であろう。
承認欲求の滝が流れて出ている。今も、多分明日も明後日も流れ出る。
私は承認欲求が強いタイプだと思う。自己顕示欲みたいなのも強いと思う。かまってほしい、チヤホヤしてほしい、褒めてほしいと思う気持ちはかなり強い。そうでなければ、こうしてブログなんか書かない。ゆえに私はつぶやく人々を否定しない。承認欲求があるのは健康な証拠だ。
インターネットのお陰で、私たちは片手で世界を見渡せるようになった。しかし、その結果、特別だと思っていた自分の個性が誰かの二番煎じだと気付かされ、思いついた新しさも一瞬で更新されてしまう。あらゆる情報の賞味期限が一瞬で切れる。すべてはタイムラインの彼方へ流れてゆく。それでも私たちは、インスタ映えする景色を求め、今夜もいいねの数を数えるのだ。
つまり、私たちはそれぞれジャンルは違えど、自分が共有する価値観の文脈の中でチヤホヤされたいのである。そういうものだろう。
私は今、「マスメディア」でも「ソーシャルメディア」でもなく、「パーソナルメディア」に興味がある。一個人の価値観と哲学と裁量で作られるメディアである。それは、ブログや、同人誌や、クラブ活動だ。深夜のラジオ番組のように、同好の仲間があつまってキャッキャする。同じ文脈を共有する、ハイコンテキストで小さなコミュニティである。
視聴率だとか、購買部数とか、いいねの数とか、シェアやRTの数は、全く評価指標(KPI)にはならない。そういう指標に全く価値が無いわけではないけど、パーソナルなメディアにおいては、全然重要な指標じゃない。
それはなぜか?
個人(パーソナリティ)の幸せに、量はあまり意味をもたないからだ。滝に意味は無いのだ。
滝を眺めても仕方がない。滝になる前の、何人かの家の蛇口から水が貰えればいいのだ。その程度の量で私のコップや鍋や風呂の湯船はすぐに一杯に満たされる。
誰でも同じように情報をイン&アウトプットできる時代になった。インフラが整い、情報環境としては条件はフラットになった。このような状況だからこそ渇望してしまう事、それは「私だけの幸せ」なんじゃないだろうか?少なくとも私はそうだ。
これはビジネスの話ではない。一つの事業の話でもないし、金儲けの話でもない。
ただシンプルに、気が合う何人かの仲間と末永く楽しく過ごしたい、という渇望なのだ。
過剰なアクセス数など必要ないし、マネタイズなんて考えたらおしまいだ。
自分の価値観を共有してくれるコミュニティを自分で作る。
インターネットが可能にしてくれた事は、一瞬で大人数を集めて金を稼ぐことではなく、同好の友を見つけやすく、また、同好の友から見つかりやすくしてくれたことだ。
その気になれば新しい出会いの可能性の港は開かれているし、自分のさじ加減で鎖国もできる。
人生において、大切なことは人それぞれだと思うけど、やっぱり、私はいい大人になっても相変わらず「君と僕と5ドル原理主義者」のままみたいだ。
私はこれだけで満足だ。 タバコとコーヒー、それとちょっとの会話。 君と僕と5ドル。
たとえ5,000ドル持ってたって、君がいないとどうしようもないんだぜ。
と、長い文章でダラダラと書いてしまったけど、一言でまとめると「寂しい。」ということだ。コメントくれ。