大豆田8話と9話メモ/その恋愛に代わる「何か」

2021/06/09
去年の夏に読んだ、能町みね子の「結婚の奴」という本の序盤にこういう一説がある。

「恋愛はすばらしいものだなんて、恋愛がうまくいった人による美化にすぎない。この世の中、恋愛によってどれだけの人が消えない傷を負い、どれだけむごたらしい事件が起きたと思っているのか。あんなものは向いている人だけが楽しめばいいことである。」


この一文がすごく好きで、これを読んだとき、黒が優勢だったの我が人生のオセロの盤上が、その一手でパーッとまっ白に裏返ってゆくような感覚がした。
このゲーム、私は負けに転じたのか勝ちに転じたのか、それはまあどうだっていい。ずいぶん気持ちよくひっくり返されたもんだなぁ、と仰向けになって笑っちゃうほど爽快で。

結構真面目な話、恋愛って「しなきゃいけないもの」だと思わされてた気がする。
TVでラブソングとラブストーリーを消費させられ、彼女や彼氏がいるとかいないとか、クリスマスはどうすんだ、とか、チョコ何個もらったか、とか、経験人数は?とか、SかMか犬派か猫派か、とか。

恋愛が経済を回していた時代が確実にこの国にはあって、ユーミンやドリカムや月9やなんやかんやがあって、その時代を通過して大人になったのが、我々である。ロスジェネっていうのかな、いまアラフォーくらい。世代的に。

「クリスマスはひとり。」っていうのが忌み嫌われる価値観があった時代、とでもいいましょうか。

恋愛は人生において重要で、欠かせないファクターである。活力であり、命の源である。っていう価値観。

恋をしましょう。
恋をしましょう。
決戦は金曜日、つって。

それで日本経済は回ってたはず。いやこれ絶対そう。90年代の日本は恋愛マーケットの創出に成功したんだと思う。


「モテる」とか「イケてる」ということがいかに大事だったか。
当時は、その対義語に「オタク」が据えられていたと思うし。

この価値観は今では変わりオタクが市民権を得て、逆に良いニュアンスでさえある。



「あんなものは向いている人だけが楽しめばいいこと」
能町みね子がいうこの言葉はすごい。
日本中が翻弄され、悩み、憧れ、執着しつづけた「恋愛」の事を、こんな風に言っちゃう。
「あんなもの」とか言って。

いいのかな?でもまあ、そうかもな。向いてるやつがやればいいのか。

ちょっと驚いたが、意外と飲み込めた。
そしてなぜか不思議と楽な気持になった。一個宿題をやらなくてよくなったみたいな。
具体的にどうというわけではないが、何かに縛られてたのかもしれないと気づかされた。
こうなると、恋愛にまつわる思春期からのあんなことやこんなことが、マジでどうかしてたな、と笑える。


最近、女性の生き方については権利や多様性が多く語られるようになり、ジェンダーに対しても理解が少しづつ一般化してきたように思う。
圧倒的な男性社会に生きるマイノリティというくくり、つまり「男性以外」という存在である、女性とLGBTQの解放が模索されはじめているのかもしれない。映画や文芸やドラマなどの物語にもそれが現れてきている。


では、男性はどうか?男性を縛る物は無いか?
わからない。いろいろあるかもしれないし、全然ないかもしれない。


しかし、私の実感として「恋愛」からの解放は、男性にとっても大きいものなんじゃないかと思う。
恋はしちゃうものだから、それ自体は否定できない。
しかし「しなきゃいけない物ではない」ということが重要なのだと思う。

恋愛にはいろんなものが付随してくる。
男らしさとか女らしさとか。
そのために、次々にやらなきゃいけない事が発生する。
そんなものはコンプレックス産業の原動力になる、金と時間を支払わせる動機付けである。


さて、大豆田とわ子と三人の元夫の8話と9話を観て、とわ子の恋の行方が気になっちゃう感じでしたが、いよいよ次回が最終回ですね。

このドラマって、いわゆる恋愛を最優位に置かずに、その恋愛に代わる「何か」を定義しようとしているように思います。
なんだろう、その何かって。

恋愛よりも大切な、恋愛に代わる何か。って何?

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