形而上学と軽自動車って似てる
2021/06/29
未知との遭遇。言い換えれば、真理の探究。世界の謎を解明するために四苦八苦。そういう挑戦と工夫を人類は日々やっているわけですが、みなさんはいかがお過ごしですか?もうすっかり夏ですね。
どうやら、「わからないこと」を解明するためのアプローチにはいくつか方法があるようで、そのひとつは、実際にその現象のパターンを観測して答えを導き出すっていう「科学的なアプローチ」。例えばそれは、地球の形を宇宙から見て「あ、マジで球体だったわ。」とか、電子顕微鏡で細胞をみて「わわわ、分裂してるよ」とか、つまり、実際にそれを目撃したり再現したりすることで、存在や現象を証明する方法。サイエンス。
ブラックホールの存在を直接写真で証明したのとかあったよね、2年くらい前に。
一方、実験や体験ではたどり着けない事というのがある場合、さっきの「科学的なアプローチ」とは別の方法もあるようです。
例えば、「人間は何のために生きるのか」だとか「幸福な社会とはどういうものか」とか「私は何者なのか」とかね、そういうやつです。
こういう謎は、科学では解明できなさそうですよね。NASAじゃちょっと無理っぽい。
では、どういうアプローチでその謎に挑むのか?という事ですよ。
こういう謎は、科学では解明できなさそうですよね。NASAじゃちょっと無理っぽい。
では、どういうアプローチでその謎に挑むのか?という事ですよ。
こういう、NASAじゃ無理っぽい謎って、一体なんていうのかなと思って調べたら、
「形而上学的な問い」っていうらしいです。
「けいじじょうがく」と読みます。
一瞬、「軽自動車」に聞こえますね。
物理的なモノや現象への探究ではなく、概念に対する探究、という感じでしょうかね。
この「形而上学的な問いの中」で、最終的な行き止まりというのがあるらしくて、それは、「なぜ、世界は無ではなく、存在しているのか?」っていう疑問らしいです。「Why not nothing?」という謎。存在そのものの謎です。これもう禁句らしいですよ。
なんで、なんで、なんで・・・と、詰めまくっていくと、ここにたどり着くのだそう。でも、だれにも答えられない。
生徒「先生、なぜ世界は"無"ではなく、何かが存在しているのでしょうか?」
先生「・・・まあまあまあ、ね。そこいく感じ?」
生徒「あ、・・いやいやいや全然もう、大丈夫です。」
という事になるんでしょうね。
さて、これから書くことが「形而上学的な問い」や「哲学的な問い」という事になるのかどうかはわかんないんですが、「思考実験」っていうのがあるじゃないですか?聞いたことあるかなと思いますが、こういうのです。
テセウス王の船を、記念に保管しておくことになったが、経年劣化に伴い、古くなった部品は新しい部品に交換しながら長年にわたって修復を続け、その形を維持してきた。やがて、部品の交換を進めてゆくうちに、すべての部品が新しい部品に置き換わってしまった。
さて、この船はテセウスの船と言えるのか?
一方、交換済みの古い部品を保管している倉庫では、その古い部品だけで新たに組み上げた一隻の船がある。さて、これはテセウスの船なのか?
これは、「テセウスの船のパラドックス」という思考実験の有名なやつで、アイデンティティ(自己同一性)について考えるためのエピソードです。
この話をベースにしたバリエーションって死ぬほどありそうなんですが、私が好きなのは、グレッグ・イーガンというSF作家の「宝石」という短編小説です。「祈りの海」というハヤカワ文庫の中に収録されています。
内容をかいつまんで言うと、大人になるにつれて脳の機能が劣化する、ということから、できるだけ若いうちに脳の代替えとなる「宝石」と呼ばれる人工知能みたいなやつに徐々に脳をシフトしてゆくのが当たり前になりつつある世界が舞台で、主人公の高校生くらいの男の子が、周りの友人がどんどん「宝石」にしてって、彼女も「宝石」にしてくんだけど、オレ、どうしよう、、、っていう小説です。
内容をかいつまんで言うと、大人になるにつれて脳の機能が劣化する、ということから、できるだけ若いうちに脳の代替えとなる「宝石」と呼ばれる人工知能みたいなやつに徐々に脳をシフトしてゆくのが当たり前になりつつある世界が舞台で、主人公の高校生くらいの男の子が、周りの友人がどんどん「宝石」にしてって、彼女も「宝石」にしてくんだけど、オレ、どうしよう、、、っていう小説です。
脳が宝石に入れ替わった友だちや彼女は、以前と同じ人と言えるのか?そして自分はどうなるのか?
こういう「思考実験」っていうのはすごくたくさんあって、ググればいっぱい転がっています。
思考実験とは、実験や体験や観測を行わず、科学的なアプローチでは対処できない問いに対して、想像力で挑むわけです。
「スワンプマン」や「中国語の部屋」や「トロッコ問題」というのが、思考実験の有名どころかなと思います。
こういう思考実験みたいに、想像力を使って、人間を形而上学的な問いに向き合わせることができるのが「物語」ってやつなのかもしれないぞ。って思ったんですよ。
「物語」という乗り物に乗せて、NASAでも行けないところへ連れて行くんです。
その「物語」を再生させる方法が、「文学」や「歌」や「映画」や「漫画」などの芸術なのだと私は思うわけです。
というわけで、
「芸術とは何か?」という問いについて答えるなら、
「人間を形而上学的な問いに向き合わせる手段」ってことなんじゃないか、って、今日、お昼ご飯を食べながら思ったんだよ、という話を長々と回りくどく書いた次第です。
こういうのは書いとかなきゃな、と思って。
結論から言えよ、って感じですが、まあそれは。
ちなみに、今日のお昼ごはんはチンジャオロースでした。おわり。
