ゆる言語学ラジオの事と、セロリとだんじりとウォーホルと英字新聞について
「ゆる言語ラジオ」について、ココが面白いんだよ!とか、いい感じのレコメンドをしたいな、と思ってこれを書き始めたのだけれど、なかなかあの良さ、あの面白さを、うまく紹介できる自信がないので、まあとにかく見てほしいです。ハマる人と、全然ハマらない人に分かれると思いますけどね。
日本語でも中国語でも英語でも何でもいいですが、言葉を話したり書いたりするには単語を覚えないといけません。「犬」とか「リンゴ」とか「えんぴつ」とかね、そういう単語。語彙ね。その語彙の量が多ければ多いほど、様々な物事を言葉で判別し、言い表すことができます。
「英語を話す人」と話したいのなら、その人が知っている言葉を覚えないといけない。「中国語を話す人」と話したいなら、同じように、その人が知っている言葉を覚えないといけない。
つまり、言葉でコミュニケーションをとるには、相手と「共通の辞書」をインストールしておく必要がある。
日本語で会話する我々は、お互いに「日本語の辞書」をインストールしている。だから話ができるし、この文章も読めているわけです。
しかし、私とあなたは、まったく同じ辞書がインストールされていると言えるでしょうか?
知っている語彙の量も範囲にも、やはりどうしたって差はあると思います。
「育ってきた環境が違うからすれ違いは否めない」というやつです。セロリです。SMAPのセロリです。1997年に発売された、日本の男性アイドルグループ"SMAP"の25枚目のシングル(CD)「セロリ」の歌い出しの歌詞です。作詞作曲はシンガーソングライターの山崎まさよしです。なので、「山崎まさよしのセロリ」でもあります。
「セロリ」を知らない人もいらっしゃるかと思って、少し「セロリ」についてご説明しました。
話を戻します。
当然のようにスムーズに日本語でコミュニケーションをとっている我々ですが、大なり小なりセロリです。お互いの語彙や価値観が100%一致しているなんてことはあり得ません。なぜなら、セロリだからです。
セロリは、お互いが異なる個体であるという事を認識し合っています。しかもこの状況はよくあることです。
セロリセロリうるせえな、なんなの?、という感じがしていますが、要するに私が言いたかったのは、「出自や環境要因で生じる価値観・行動原理・世界認識のズレやギャップは、他者とのコミュニケーションにおいては齟齬や誤解を生じさせる要因になり得るが、しかし、そのギャップこそが魅力的な個性であるがゆえに、いわば、単純に君の事、好きなのさ。」という情報を「セロリ」という3文字に圧縮して、一つの単語として使ってみたかったのです。
今この状況において「セロリ」という単語の意味は、単なる野菜の品種名ではなく、その名を冠した流行歌の意味を含んでいます。このように、お互いの辞書の中に同じ言葉が同じ意味で共有される状態になると、この「セロリ」のように本来とは異なる意味や用法であっても、会話の中で機能する言葉として使う事ができるようになります。
これはつまり、お互いの辞書が同時にアップデートされた状態と言えるのではないでしょうか?
具体例をもう一個出すとするなら、以前このサイトに寄せられた、おださんという方からのコメントで、「焼肉は上等なものを何枚か食べるのがベストだが、それをわかってはいつつも量をたべてしまい、食後の胃もたれに後悔してしまう現象に名前をつけるとしたら」というような内容があり、それに対して私は、「それは言わば"だんじり"だ。」と、記事でレスポンスしました。すると、そのコメントを書いてくれた方(おださん)から、「だんじり」という言葉を普段使いで活用しているという旨のコメントをいただきました。(※→この記事にまとまっています)
このやり取りは何かというと、これまで名前がついていなかった事に対して、ワンフレーズの名称が名付けられ、それが活用された、という事なのです。つまり。このキャッチボールを経て、少なくとも私とおださんの辞書が同時にアップデートされたと言えます。もっと言うと、このキャッチボールの中に参加はしていないが、読んでいただいた皆さんの中にも、同じように辞書がアップデートした方いるかと思います。
これは、私にとっては、大変興味深く面白い出来事なのです。
「セロリ」や「だんじり」のように、概念に名前が付くという事は、その概念が記号化された状態と言えますし、コンテキスト(文脈)が発生したという事とも言えます。
このサイトで、先週書いたJ-POPの恋愛ソングのプレイリストを作る過程の記事の中で口走った、「aiko」は「ピッペン」だ、という互換も同様な名付けによる記号化の一つと言えます。
私は基本的に好き勝手にこのサイトに文章を気ままに書き散らかしているわけですが、その言葉の蓄積と、それに対する皆さんからのコメントによって、何かここに着実に文脈を形成し、私と皆さんの辞書をアップデートしているのです。お互いの辞書がアップデートされると何が起こるかというと、私たちは、私たちの間だけでしか流通しない意味を、今後の一生、共有し続ける関係になる、という事なのです。
本を読み、映画を鑑賞し、音楽を聴き、誰かと話す。つまり、そのような「人が発した情報」を摂取するという事は、自分の辞書を上書きするという事だし、それらの情報を発した人や自分と同じようにその情報を摂取した人、つまり、同じ情報を共有した人々と、部分的に「同期する」してしまうという事です。この「同期」があるがゆえに、私たちは流行りのギャグで一様に笑い、有名なタレントの死に対して何か象徴的な意味を感じたりするのでしょう。
少し話題は変わりますが、私はアンディ・ウォーホルが好きなのですが、いろいろ調べたり深堀したりする中で、私はなぜ彼が好きなのか?なぜ彼がこんなにも評価されているのか?という事について、継続的に考え続けてしまっています。
先述の「言葉」と「意味」と「辞書のアップデート」、それに伴う「みんなの辞書が同期する」という事が、どうやらウォーホルの理解にも役に立つような気がしています。
私は時代的、地理的な理由から、体験的に「マリリン・モンロー」や「キャンベルスープ缶」というものが持つ意味を、残念ながらあまり理解できません。つまり、当時1960~80年ころのアメリカ人たちのようには、それらのモチーフが持っている意味やニュアンスやイメージを体感していないため、よく知らないのです。つまり、ウォーホルと同じ辞書を持っていません。ウォーホルは、当時のアメリカ人がみんな知っている「マリリン・モンロー」や「キャンベルスープ缶」を、美術作品として描きました。つまり、当時のアメリカ人たちの辞書は、すでに「マリリン・モンロー」や「キャンベルスープ缶」が、みな同じ意味で同期されている状態であり、その前提があるなかで、ウォーホルはそれらを美術作品にすることでみんなの辞書をいっぺんにアップデートすることに成功したのだと思います。しかし、私はその作品の前提となる辞書を持っていなかったし、逆に、あのモンローの顔やキャンベルスープは、ウォーホルの作品を観て初めて知ったので、残念ながら、それはすでに意味がアップデートされたモンローだし、キャンベルスープ缶だった、というわけです。
ゆえに、私は、ウォーホルが何をしたか?という事を知る事ができたとしても、体感的に彼の作品を鑑賞して楽しむことは最初からできなかった、という事なのです。もう済んでしまったことなのです。
仮に、それでも、彼の作品を観て「美しい」と感じることができたとしても、それは例えば、中学生が英字新聞を見て「なんかカッコいい!」と感じるのと大差のない事です。
すでにみんなが知っているもの、みんなの辞書に同じ意味で載っているもの。それを言い換えると「有名なもの」「ポピュラーなもの」となりますが、それを別の意味にアップデート&同期させる事は、いわば、言葉を書き換え、記号の意味を書き換える作業だと言えます。その作業は簡単で、有名なもの、ポピュラーなものをモチーフにして絵画を作りさえすればいいのです。お金を印刷するみたいに。これがいわゆる「ポップアート」だと思います。
たまに、デザインの仕事をしてると、客や代理店が「このデザインもうちょっとポップにならない?」とか言い出す場面に遭遇することがありますが、この「ポップ」という意味は、きっとこの「ポップアート」の表面的なイメージから来ているのだと思われ、それを聞くたびに私は「うるせぇなこの英字新聞野郎。」と思っていることを、ここに告白しておきます。
私はいま「ゆる言語学ラジオ」を聴いて「言語」というものの面白さを感じている最中ですが、その奥深さ、射程の広さに大変驚いています。極端な話かもしれませんが、私自身が「言葉」によってかろうじて存在し、「言葉」によって生活しているのだ、と考えを改めてしまうくらいのインパクトをくらっています。今までいろいろ考えたりしてきたことで未解決な事もたくさんありますが、それらを解決したり整理したりする糸口になるんじゃないかと思っています。
ありがとう、ゆる言語学ラジオの人。すげぇ面白いよ。