鼻ほじとバートルビーはキャピタリズムの宙に浮く
2021/07/20
以前書いた記事「愛とか恋とか、しなくていいから」にハラダさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
こんな感じです。
性別が後天的なものという解釈は面白いですね。差別に関してのコメントを書こうと思ったらめちゃくちゃ長文になってしまったのでnoteに書きました。→ 「差別はなくなるのか」https://note.com/haradatakeaki/n/n0fb953ff807e
変なペンネームですがハラダです。
というわけで、noteの記事を拝読しました。
私はハラダ氏の事を、彼が高校生の頃から知ってて、彼にはたくさん作文みたいなものを書かせたりしてたんですが、文章の雰囲気が当時とあんま変わってなくて、なんか良いな、と思いました。
さて、「世界がどんどんアップデートしていって、性や人種、出自に対する差別がこの世からなくなった時、浮き彫りになるのは人々の「能力」だと思っています。」ということです。なるほど。さらにハラダ氏は例を挙げてくれています。
「鼻ほじ」の能力に長けた人物が、社会にうまくハマらず、誰からも求められず、自己肯定感が失われ、打ちのめされ、そして他の誰かを打ちのめす側になってしまう。といった、悪しき循環の公式のようなものが、結局はそこにあるのではないか?という説ですよね。意訳しちゃうとね。
彼の言う「鼻ほじ」とはなにか。
「鼻ほじ」は、社会にその能力の価値を認められない存在として、この話に登場する。需要が無い能力を持つ者だ。
ジェンダーや人種などの出自に対する差別が無くなっても、この「鼻ほじ」のように、社会や市場のニーズが無いものは阻害され、無視されてしまう。
めちゃくちゃ有名なくせに、これって誰も全部読んだことないんじゃないのか?でおなじみの長編小説「白鯨」の作者である、ハーマン・メルヴィルが書いた短編小説で、「書写人バートルビー」という作品がある。
この作品はちょっと風変わりな小説で、ハラダ氏がいうところの「鼻ほじ」を題材とした物語といえなくもない。ということで、少し紹介したい。
1853年に発表されたこの作品の主人公は、ニューヨークのウォール街で法律事務所を経営する男。この当時はワープロもコピー機もない時代なので、書類を書き写して複製したりする"書く専門のお仕事"をする「書写人」という職業があった。主人公の男は法律家であり、経営者であり、信仰を持ち、人格者であろうと努める人物である。
彼は2人の書写人と1人の小間使いの少年を雇っているが、あるとき人手が足りなくなり、書写人の求人を出した。
そして、バートルビーという物静かで温厚な男を採用する。
最初の内は、このバートルビーは頼まれた書写の仕事を淡々とこなし、文句の無い働きを見せる。
しかし、ちょっとしたお使いや、原稿との読み合わせチェックのような仕事を頼まれると、
「それは、できればやらないほうが好ましいのです。」
というような調子で、そういった仕事には一切かかわらろうとしない。
そしてそのうち、書写の仕事もやらなくなり、何も仕事をせずに、ただ職場に「居るだけ」の存在になってゆく。
っていう話だ。
私はこの物語を何度も読み、この理不尽で不条理なバートルビーの言動と挙動を、主人公の法律家と一緒になって、なんとか理解しようと努めるのだが、どうにも気持ちが悪い。
バートルビーはおかしくないのかな?
いや、おかしいだろ!
いやまてよ、なにが悪いのだろう?
いやいや、ダメだろ!
という感じで唸ってしまう。
この物語の主人公のバートルビーの雇い主である法律家の男は、きわめて冷静に、人道的に、温情をもってバートルビーに接しつつ、「できればやらないほうが好ましいのです。」という彼に対して、「それはおかしいんだよ」と、考えを改めさせようと何度も試みる。「他の連中もほらちゃんとやってるよ」とか、そういう感じで何度も何度も試みる。しかしバートルビーの変わらない態度に苛立ち、激高してしまう。
きっと、おそらくこの作品は「資本主義社会と人間性」について描かれたものだと思うのだが、これを読んで少しショックだったのが、読んでいる私自身が、主人公の価値観に同意してしまうという点だ。
バートルビーに対して主人公と同じように狼狽し、不安になり、苛立ち、怒り、恐怖を覚える。
つまり私は、資本主義社会の価値観が当たり前で、それに何の不思議も感じていない自分を発見したのだ。
バートルビーはおかしくないのかな?
いや、おかしいだろ!
いやまてよ、なにが悪いのだろう?
いやいや、ダメだろ!
資本主義社会というのは、「すべては商品である」という前提がある。
資本家(企業)は自由に商品を生産し、販売し、利潤を得ることができる。
資本家(企業)は人間の労働力を使って商品を作り、その商品に価格を付けて販売する。
商品を売って稼いだ利潤は資本家(企業)が受け取る。労働者が受け取るわけではない。
労働者が受け取るのは一定の賃金(作業料)であり、生み出した商品の対価が得られるわけではない。
資本家(企業)は商品の対価を得るが、労働者は一定の賃金だけ。
これが拡大し続ける格差の基本的な仕組みであり、資本家(企業)による労働力の搾取の構造である、とされている。
話を戻すと、
「鼻ほじ」も「バートルビー」も、労働力側の存在であろう。
我々の多くもそっち側だと思う。
だとした場合、資本家(企業・経営者)に対して、求められた労働力を提供できない(しない)となった場合、
「え?じゃあ、なんでここにいるの?」
という具合に、鼻ほじもバートルビーも行き場を無くして、空中に浮いてしまう。
ひょっとしたら、この空中に浮いた、ホバリングした人間の存在こそが、資本主義社会に対する問いそのものなのではないだろうか?
「君は何ができるの?」
「鼻をほじるのが上手いです。」
「え?どういうこと?」
という状況であったり、
「ちょっとこれ、郵便局に届けてくれる?」
「それは、やらないほうが好ましいのです。」
「ん?どういうこと?」
労働力という形でしか存在が許されない社会においては、非労働力は除外されてしまう。そうでなければ資本家や起業家になるしかないのが資本主義社会ってやつなんじゃないかなと。
ハラダ氏のいう差別に対する暗鬱な気持ちとは、少し確度の違った着地になっちゃいましたが、私もいままでずっとうまく言葉にできなくてモヤモヤしてた考えを書いてみるいい機会になったかもな、と思います。
なにかがおかしい。
おかしいことはわかるんだ。
でも、なにがおかしいのだろう?
っていう気持ちや考えに、いちいち名前を付けるような作業をコツコツと丁寧にやっていきたい。
変なまとめ方になったけども、ハラダさんコメントやお返事ありがとうございます。
またよろしくお願いします。
またよろしくお願いします。