夏休みのリモコンとエアコンと本

2021/08/02
大人になると、まとまった夏休みが無くなる。少なくとも私はそうだ。
我が家では小学生の娘が、今まさに夏休みのど真ん中であり、彼女の夏と私の夏が並走するかたちで七月を駆け抜け、いよいよ8月に突入した。
私は去年の6月から完全にリモートワークなのでほぼ毎日自宅に居る。平常、娘は朝小学校に登校して夕方になる前に帰って来るというサイクルだ。しかし夏休みは違う。基本的に一緒に三食ご飯を食べ、3時にはおやつも食べ、お互いに退屈になると仕事の邪魔をしに来たり、宿題の邪魔をしに行ったりする。
ホームセンターで買ったトマトが鉢植えで庭にある。今年はミニではない。桃太郎という王道トマトを育てている。実際に育てているのは私でも娘でも無く妻だ。
朝顔も朝咲いている。去年植えて咲いたあの朝顔だ。夏が終わると同時に世話をしなくなり、秋も冬も次の春も完全に忘れていたのだが、今年も屈託無く咲いた。楽しみにしていたわけでは無いだけに、意外な嬉しさと後ろめたさを同時に感じる。なんだかこれに似た人間関係に心当たりがある気がするが、はっきりと思い出せない。気のせいかもしれない。
リモートワークは、文字通り「リモート」な「ワーク」だ。リモートという単語を使うことがこれまでの人生であったとするならば、リモートコントローラー、略してリモコン。リモコンだ。テレビのリモコンとかだ。ちょっと離れた場所から端末を遠隔操作をするための技術だ。
リモートワークにおいて、私はどっちなのだろうか?
会社に通勤してた時、ほとんどの仕事相手とは電話やメールでやりとりしていたので、いわばもうすでに「リモート」に仕事をしていたわけだ。しかしながら、この状態は特にリモートワークとは呼ばれない。リモートワークとは「会社のオフィス」と「私」との距離が離れている状態だ。この場合、「リモコン」が会社で「端末」は私。私は会社に遠隔操作されているという事になっていないと具合が悪い。
会社がリモコンを握ってる。端末は方々に散らばっているが、その稼働はリモコンに制御されているのだ。
なんてね、私の仕事の場合、このようは事は全くない。
それぞれの端末が、必要に応じて個々で繋がって日々のタスクを処理する。企画やプロジェクトによってその繋がりと規模はアメーバやリゾームのように形態を変化させて課題に対応する。そのアメーバ的なものの運動に「会社のリモコン」はあまり必要がなくなってきている。次第に個々の端末が自立して動くようになってきている。リモートワークに慣れてきた労働者は、次第に第2形態、第3形態という具合に進化し始める。私にはわかる。


リモートワークの夏は2回目だ。出勤しない日々の中に夏休みの小学生がいると、バケーションと仕事とのボーダーラインは曖昧に溶けていく。
ベランダに出ると山の向こうに巨大な入道雲。隣ん家の広い芝生には家庭用のビニールプール。ホースから吹き出す水飛沫。全体的に蝉。蝉。蝉。
エアコンはつけっぱなしだ。つけっぱなしの方が、つけたり消したりするよりも経済的でエコでもあるという冗談の信憑性を私は問いはしない。そんなことはどうでもいい。つけっぱなしでずっと涼しいほうがいいからそうしてるだけだ。そのために電気代が2倍になろうが3倍に、なろうが構わない。夏は涼しく冬は暖かくが私のモットーであり、その冷暖房のコストを節約しようなんて考えは毛ほども無い。そのコストを支払うために働いているといってもいい。
夏は冷えた部屋で本を読む。今年もだ。何冊か読んだから感想文を書きたいと思う。
今年の夏になってから読んでいる本たちは、少しずつ繋がっている。例えばある本の中に別の本が紹介されていたらそれを読む、といったリンクを辿るような読み方を複数経路でやっている。楽しい。なにかに導かれるような気もするが、結局のところ最初から自分が求めていた方へ進んでいる気もする。他人の知や言葉をとにかく口に頬張り、噛み砕いたり丸呑みにしたりしながらパックマンのように迷路を進む。ゲームの作法や攻略法はプログラムされた最適解があるのかもしれないがそれはどうでも良くて、今は過程を楽しみたいのだ。
次の記事から本のことを書く。

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