イーゴン自治区

魚釣りのことをできるだけ落ち着いて語る1

2021/08/10
例えば恋は「始める」とか「始まる」とは言わず、「落ちる」という表現になる。「恋に落ちる」だ。
魚釣りも「始める」ではなく「落ちる」のほうが相応しい気がする。不可抗力とまではいかないが、急激にその中に引きずり込まれ、四六時中その事ばかり考えてしまう点が「落ちる」という表現を使うに値するポイントである。

3年前の夏、私は魚釣りに落ちた。

今はどうか。今私は落ちているか?わからない。
片想いの恋に落ちた者も、三年も経てばある程度落ち着くというものだ。あの日確かに落ちたし、いまも落ちた地点に居るには違いないが、毎日毎日通販サイトでリールやロッドを品定めしたり、道に釣具屋の看板を見るたびに駐車場にハンドルを切ったりすることは無くなった。フィッシングショーにも行かないし、釣りユーチューバーの動画ももうあまり見ない。なんなら前ほど釣り場にも行かない。

魚釣りに落ちたばかりのあの頃、
すべてが新しく、すべてが楽しかった。

3年経ってちょっと落ち着いた私は、今こそ冷静に魚釣りについて考えている。
冷静に考え始めると言った矢先に、つい明日の朝の天気と潮回りをチェックしてしまう。
落ち着け、どのみち今は台風だから無理だ。台風の時ぐらい冷静になれ。

私は一体、何に夢中になったのか。
魚釣りとはなんなのか?
一般的なとらえ方とはちょっと違うかもしれないが、すこし向き合ってみたいと思う。



私がやっている釣りは「海釣り」である。河川や渓流や湖沼でやる釣りとは少し違う。
海釣りの対象となる魚は海水魚だ。海の幸だ。基本的には食べられる魚だ。魚屋さんに売っている魚だ。
一方、河川や渓流や湖沼の場合は淡水魚だ。ブラックバスやヤマメやトラウト、ナマズやヘラブナなどだ。

私が海釣りをする理由はシンプル。家から海が近いからだ。車で5分で海岸なのだ。日本海の海岸はほぼ「釣り場」だ。海岸線沿いに車を走らせればそこらじゅうで釣りができる。漁港も点在しており、釣りをする環境としては恵まれているような気がする。

私はまだブラックバス釣りやヘラブナ釣りといった淡水の釣りをやったことが無い。理由は、海に比べると釣り場に行くのがちょっと面倒だからだ。少し足を延ばせば釣りができる河川や湖沼もあるようだが、アクセスが良くないし釣り自体が禁止されているところも多いと聞く。「海」と比べて、どの辺に釣りができるポイントがあるのかがよくわからないっていうのが私が淡水の釣りを全然やらない主な理由だ。そしてやはり「釣っても食えない」というのがいまいち解せない。食おうと思えば食えるようだが、淡水魚はそんなに無理して食うもんじゃないだろう。その点、海の魚はほぼ食い物だ。中にはフグのように毒があるものもあるが、まあ大体釣ったら食べられる、というのがいい。

食べる事を前提にした釣りというのは「調理」も釣りの工程に含まれる。鱗や内臓の処理、鮮度を保つための血抜き、三枚おろし。魚の種類の数だけそれにふさわしい捌き方や調理方法がある。それを学ぶのもまた面白いし、上手く調理できれば美味しいのでなお良しである。
自然から命を奪って食べる。この工程の最初から最後まで直接自分一人でやると、なるほど、人類はこうやって生き延びてきたのだなと感じられる。縄文人になったような気分である。




さて、そんな海釣りで、私が思う最も面白い点は、
「相手が見えない」という事だ。


漁港の堤防や砂浜に立つと、目の前には海面が拡がっている。海と空の境界面だ。この境界面の下に魚たちがいる。きっとおびただしい数の魚たちが泳いでいるのだろう。しかし、どこにどんな魚がいるのかを陸の上から視認することはできない。たまに魚群の影を目視できたり、バシャっと遠くで跳ねる様を目撃することもあるが、基本的に釣り人は相手がどこにいるかわからない状態で獲物との対峙を開始する。

やったことが無いので本当のところはわからないが、淡水魚の釣りはある程度相手の姿が見えているケースが多いんじゃないかなと思う。深い河や濁った湖沼は別かも知れないけど。
見えている状態の対象を捕まえる行為は「狩り」や「ハンティング」に近いような気がする。見えるものを狙う事と、見えないものを狙う事では、やっているプレイのジャンルが結構違うような気がする。私は「見えないもの」を捕獲するプレイが好きだ。海の釣りは相手が圧倒的に見えない。

私が立っているこちら側の世界から、海面に隔てられた向こう側「魚たちの世界」に対して、細い糸一本でアクセスする。
糸の先にはルアーや餌を付けた釣り針がついており、私はそれを陸の上から操作する。見えない魚を想像しながらルアーや仕掛けを上へやったり下に沈めたりする。スイスイと泳ぐように素早く動かしたり、死んだようにじっと止めたり、そんなことを繰り返しながら“見えないイメージの魚”とコミュニケーションを図るのだ。イメージだ。海釣りのほとんどはイメージだ。海の中を想像をしながら釣り竿を操作し、リールを巻く。この時間こそが「釣り」だ。



カモメが低く飛ぶ。海面にきらきらと反射する日差し。水平線の行き止まりにうっすらと島が見える。年季の入った漁船が白波を立てて港に帰ってくる。漁船が通るとその下に居たであろう魚たちは驚いて動き出す。活性化した魚たちは私の放ったルアーに気が付いただろうか?クイックイッと釣り竿をしゃくりあげて、私は自分のルアーの存在感を魚たちにアピールする。「私は弱った小魚です。どうか食べないでー。食べないでー。」

「押すな、押すな」の真意が「押せ」であるように、「食べないでー、食べないでー」の真意は当然「食べて」だ。
弱った小魚を演ずる我がルアーに、さあ食いつけよ魚たち。

釣り糸と海面の接点をじっと見つめて竿先に全神経を集中させながらも脳は想像の海の中を漂っている。そうしていると「ブルブルブルブル!」という竿先のバイブレーション。始まりの合図だ。このブルブルはいつも突然にやって来る。口に針が刺さり、そこから逃れようと必死にもがく魚の様子が振動で伝わってくる。

「超ヤバい!超ヤバい!超ヤバい!死ぬかも!クッソ、マジかよおい!」という声が聞こえてくるようだ。
それをノリノリのハイテンションで釣りあげるのだ。釣り人たちが最も興奮するのがここだ。この瞬間だ。
きっと人間は、死に物狂いで抗う相手を手繰り寄せて仕留める、という行為に興奮する生き物なのだ。

仮に、魚釣りという一連のフローに於いてこのブルブルの抵抗が無く、まったくのノーリアクションで釣りあげられちゃうものだったとしたらどうだろうか?きっと誰も趣味で釣りなんかやりはしないだろう。淡々と魚を集める作業なら、それはただの「漁」である。

私がやりたいのは「漁」ではなく「魚釣り」なのだ。

ブルブルと死に物狂いで抗う魚を手繰り寄せるあの時間を「格闘」と表現するケースをよく見るが、そうではないと思う。魚は命がけで逃げている。殺されて食われちまうからだ。一方の人間はそんな窮地ではないしリスクもない。いわば神の気まぐれのような遊びでしかない。これを「格闘」と表現するにはいささかフェアではない。モリ1本でホオジロザメに挑む!とかだったら決死の格闘感はあるが、陸からの釣りの場合はそんな大層なものではなく、ただの遊びだ。それ以上でもそれ以下でもない。

釣りの方法にはいろいろあるが、ざっくり分けると、ミミズ的な餌を釣り針に付ける「餌釣り」と、獲物の餌となる小魚などを模したルアーを使った「ルアー釣り」が代表的だ。餌釣りには多種多様な仕掛けがあるので、ひとくくりにはしにくいが、まあ便宜的に「餌」か「ルアー」か、で分けることにする。
私は両方好きだが、ルアー釣りに対しては、なんというか憧れと尊敬の念を持っている。

釣りに限らず、カブトムシを獲る時も、何か野生の動物を獲るときもそうだが、「本物の餌」でおびき寄せて捕まえる方法というのは至極当然というか、まあそりゃそうするわな、というひねりのない直接的な印象を受ける。

しかしルアーはちがう。その存在自体が「偽物の餌」だ。鼻っから全部嘘なわけだ。偽物の餌で魚をおびき寄せて食いつかせる。食いついた瞬間にはじめて魚はこれが「偽物」だった事に気が付く。気が付いたときはがっつりと口に針が刺さって絶望するというわけだ。「しまった!」という魚の声が糸を通して聞こえてくるようだ。

ルアーというのは面白い。釣りをするシチュエーションやターゲットの魚種に応じて膨大なバリエーションが存在する。プラスチックで作られたものや木製のもの、鉛やタングステンで出来ているものもある。サイズも形も多種多様で、多くのメーカーによって新しいものが日々生み出されている。
初めて釣具屋に行った時の事を覚えている。知識ゼロの状態で一人で行った会社の近所にある上州屋だ。

「なんだこの膨大な種類の魚の人形みたいなやつは!」

私はルアーという物自体をよく知らなかった。そしてそのバリエーションの豊富さに圧倒された。たかが魚だぞ。こんなに種類必要か?と。
例えば魚という種が学習する高度な知的生物ならまだわかる。人類と魚類の騙し合いで勝つため、魚の目を絶えず欺くためには、手を変え品を変え、頻繁にその姿形を変える必要があるかもしれない。それゆえのこの豊富なバリエーション。新作ルアーがバンバンリリースされても不思議はない。しかしそうではないだろう。相手はただの魚だ。その生態は太古の昔から変わらないだろうに。でも実際にこんなに、死ぬほどたくさんの種類が存在するのだ。それらのすべてが「釣れるルアー」として販売されている。どれでも一緒なんじゃないのか?と私は思ったが、実際に使ってみると確かに良く釣れるものとそうでないものがあった。場所によってもその成果は違った。魚の種類によっても反応が違う。季節や時間帯でも違う。これは面白い。私はルアーというものに強く惹かれた。

ルアーとは、「魚を釣る」という目的を達成するためにデザインされたプロダクトだ。
人間が生み出す造形物には、建築物や服、あらゆる日用品や家具、グラフィックや広告、ゲームや玩具など様々あるが、それらのほとんどが人間を対象としたデザインである。私は学校でデザインを学んだし、仕事で広告のデザインをすることもある。造形デザインとは、人間の心理や行動パターンに訴えかけ、何らかのアクションを起させるために作られる。乱暴に言ってしまえば、造形デザインとは形と色と素材の組み合わせによって人間社会を作り変える技術である。ゆえに、そのデザインは「人間に向けられたデザイン」と言える。

一方、ルアーは「魚に向けられたデザイン」と言える。


例えば、普段イワシを食べている魚を釣るには、どんなルアーが効果的か?
普通に考えれたら「イワシにそっくりな色と形」のルアーがよさそうだ。

実際、イワシを模したルアーはある。「イワシカラー」はスタンダードなデザインだ。だいたいキラキラの光沢ボディにブルーと白の配色になっている。

sa.jpg

こういうルアーを見ると、「へぇ、魚って色を識別できるんすね。」と思うだろう。見た目を本物に似せるほど優秀なルアーである。と、思う事だろう。私もそう思っていた。あるルアーに出会うまでは。


レッドヘッドである。

rh.jpg




おい、どういうことだ。
何だこの、仕出し弁当の紅ショウガみたいなのは。冗談だろ?こんなもの、何の魚にも似ていないし、釣れるわけがないだろう。

この「レッドヘッド」というデザインのルアーの歴史は古い。少なくとも50年以上も前から存在していたと言われている。現代ルアーの礎となったフィンランドのルアーメーカー「ラパラ」の創業が1936年。おそらく創業当時のころからこのレッドヘッドは作られていたと思われる。のちにフィンランドで1952に開催されたヘルシンキオリンピックを契機にラパラのルアーは世界に広がる。オリンピックのために世界中から訪れた選手や関係者が、お土産でラパラのルアーを母国に持って帰り地元で試す。「なんだこれ!めっちゃ釣れるじゃん!」ということで、ラパラは一気に世界を席巻するわけである。つまり、レッドヘッドは50年以上デザインを変えることなく今も存在し続けている。例えば今日、釣具屋に行ってみてほしい。レッドヘッドがちゃんとある。現役選手である。むしろ、一番釣れるルアーとして君臨し続けていると言っていい。

話を戻そう。デザインだ。この赤白のデザインは「釣れる」のだ。魚に似てないのに釣れるのだ。世界中で実績がある。歴史が物語っている。

という事は、イワシルアーのくだりで書いた仮説が怪しい、という事になってしまう。
「魚に似せれば似せるだけ優秀」というのはどうも怪しい。もっと言えば「魚は色や形が見えている」というのも怪しくなってくる。
まあ、詳しいことはわからないが、レッドヘッドの存在が証明したことは「色は似てなくても釣れる」という事だ。


私はこのレッドヘッドのデザインが好きである。
特にラパラのレッドヘッドが好きである。もちろん持っている。

このレッドヘッドを眺めるたびに、「デザインとは何か」という問いが自分の中で湧き上がってくる。魚の姿を模していながらも機能を追求した結果、この不可思議で抽象的な美しさを獲得した稀有な造形。これは、人間が自然に問い続けてたどり着いた一つの正解なんじゃないかと思うのだ。


<長くなってしまうので、いくつかに分けて掲載します。つづく>


コメントをどうぞ。 現在0件

あなたが最初のコメントを書くのです。