イーゴン自治区

ドーナッツの真ん中に梅干しを浮かべて

2021/09/08

何かを表現行為を行う場合の話ですが、例えば「小説を書きたい」とか「作曲をしたい」とか「映画を作りたい」とか「絵画を描きたい」とか「写真を撮りたい」とか、まあそういう衝動があるとして、いや、かつてあったとしてね、若いときとかにね。

そう、なにかクリエイティヴな人間になりたい、という願望があったとしてね。そういう人間の話をしますよ。

私はそういう「クリエイター」に憧れながらずっと育って、いまでも憧れているわけですが、年齢を重ねたことでその心持が変わったというのではなく、時代と環境が大きく変わったことで、その「クリエイター」というものへの距離感やモチベーションのようなものが変わってきたなと思っておるわけです。

私自身、中高生の時にうすぼんやりと進路について考える時期があり、さすがに「漫画家」とか「芸術家」とかちょっと言えないなぁ、という空気読みをしつつ、来るべき青春の入口付近をウロウロしてました。そのころに「デザイナー」というちょうどいい塩梅のキーワードを知るに至り、己の願望と社会適合の落としどころを見つけたのです。

グラフィックデザイナーかっこいい。

「グラフィック」の意味すら知らないが、なんか響きがカッコいい。それだけ。私が持ってた切符はそれだけ。

「漫画家」とか「芸術家」よりは、「グラフィックデザイナー」なら、親も先生も割と安心。

というわけで、そのような学校に入り、フリーランスをやったり、バイトしたり、企業に就職したりしながら、細々とデザインに触れるか触れないかのレベルではありますが、そういう仕事をしてご飯が食べられているわけです。

そのいろいろあった時期、様々な小手先の技術を身に着けたのですが、私はいつも「ドーナッツ」のような気分でした。

安っぽい表現ですね「ドーナッツ」。真ん中が空いている。空虚な心、という雰囲気を表現しています。
ミスター・ドーナッツ。私はミスター・ドーナッツ。ミスドです。ミスド。

このような文脈において、ドーナッツの逆は何か?
例えばそれは、梅干しおにぎり、とする。

梅干しがおにぎりの「コア」である。しかもその「コア」の中にさらに種があり、その種の中に「ほとけさま」と呼ばれる何かがさらに存在する。セントラルドグマです。しかもそのコアは「食べられない」っていうね。消費されない中心を持つ、そんな梅干しおにぎりを一旦、構造的にはドーナッツとは逆の位置づけとして、この話を続けます。

私は世代的には、こうです。

高校生の時にポケベル。高校卒業くらいにMacのG3とかスケスケのimacとかが発売。インターネットが一般化し始めたころで、Googleはまだない。そんな20代前半にあの手この手で、デジタルツールを使ったクリエイションの技術をほとんど独学で覚えてゆくことになります。画像加工から映像編集、オーディオ編集、グラフィックデザイン、CADに3Dモデリング、WEBデザインにコーディング等など。同じ世代の連中はみんなそうでした。みんな手探り。

割と好奇心も強く、器用なタイプなので、結構いろんなことができるようになっていった私ですが、これらの技術はあくまでも「手段」であって「目的」ではないわけです。つまり、ある程度なんでも作れるよーという人間ではあるかもしれないけども、自発的に何かを表現しているわけではないという事です。

なにかと戦っているわけでもないし、強い渇望や主義主張があるわけでもない。ただただ器用。

なにかを作れるようになるという事が嬉しいし、充足感もある。達成感もある。結構これはこれで良い事だとも思うし、職能としては、しばらく食っていくくらいの「手に職」は身につけることができたと思いますよ。しかしですね、なにかこう、ドーナッツ感がずっとあるわけですよ。高校生の時に発見した落としどころとしての「デザイナー」のようなものには成れて、うまく社会生活ができている事にはあっぱれといった心情ですよ。まさか自分が住宅ローンを組むとはね。


ミスター・ドーナッツは最近思うのです。
身に着けた技術を自分の「梅干し」のために使ってみたい。
しかしながら、私は梅干しを持ってない。これはもうしょうがない。

こうなったら、梅干しの代替えになる物を、我がドーナッツホールの真ん中に浮かべてみようじゃないか。

梅干しドーナッツ


まあ話を戻すと、クリエイションの「目的」の代替えをどうするか、という事です。

それは言い代えるとしたら「テーマ」というやつかもしれないですね。

例えばそれは、自分が「執着してしまうもの」、「好きなもの」、というのでもいいような気がします。


こないだ、Spotifyで「レキシ」の曲を聴いてて、ああ、こういうのもいいな、と思ったのです。
「レキシ」と「宇多田ヒカル」を聴き比べてみると、何を歌っているかの違いはすぐ分かりますよね。

レキシは「日本史」をテーマにして、その膨大なイメージソースをブラックミュージックと掛け合わせてJ-POPに変換して表現していて、宇多田ヒカルは個人的な人間関係や人生観を歌にしている。このほかにも、セールスやヒットやポピュラリティを重要視するミュージシャンがいたりしますね。


レキシがこの例えにふさわしいと思うのは、仮にレキシが、音楽だけではなく映画監督もして、絵画も書いて、小説も書くとした場合、そのすべてのテーマが、イメージの源泉が「日本史」で全然かまわないし、いくらでも作品が作れてしまうと思うのです。日本史が「梅干し」という事です。

手先が器用な人間には、このような考え方が何かをブレイクスルーするきっかけになるんじゃないかと思うのです。


ただ好きなものをドーナッツの真ん中に浮かべてみる。

こうすることで、あの頃こじれてしまった何かをスッキリと解消できるような気がしています。


このような理由で、好きな「魚釣り」を真ん中に浮かべてTシャツとかを作っているというわけです。
今のところ楽しいし、ストレスは無いし、イメージの源泉になるモチーフは膨大にあるので、最高。2_20210908090455ea2.jpg

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