絵の上手さも大事だけど世界観はもっと大事。設定とあらすじを作る。

まだ、アニメづくりには飽きていない。大丈夫だ。
世の中には様々な映像表現がある。アニメーションのスタイルも多種多様で、それぞれに良さとダメさがある。
どこからどこまでが「アニメーション」といえるのか?新しいアニメーションとは何か?
なんつって。まあそういう類の求道的な「志」のようなものは1mmも1gも無いが、その代わり、どの程度の手数なら、ギリ「アニメ映像」になり得ますかね?という関心こそある。いわゆる省エネとコスパが重要だ。
私財を投じ、徹夜を重ねてこそ成果にたどり着くという神話はどうでもいい。つまり「桜の木の下には死体が埋まっている」という論理に抗いながら、自分が納得する及第点にタッチすればいいと思っている。
なぜならば、今回のやつは淡々と長期的に作り続けたいからだ。人生100年時代だからだ。
日曜日のサザエさんやちびまる子ちゃんのアニメーションに芸術的イノベーションを求めるだろうか?そういうんじゃない。ちびまる子ちゃんみたいな、ああいうのが作りたい。意味が伝わる記号が動いて鳴ればそれでいい。大事なのはむしろ、世界観のほうだ。
自分の人生の箱庭を作ってタイムカプセルに入れるような作業。自分自身を客体化して楽しめるアクアリウムのようなものにしたい。インディペンデントだ。私は自由だ。
さて、これから組み立ててゆく作品の設定(世界観)を考えた。テーマもある。
やってみないとわかんないけど、とりあえず形式は、5~10分くらいの尺で1話完結型の連ドラにするが、回を重ねつつ徐々にクライマックスにたどり着くように構成したい。まず10話作って1シーズン終了という感じだ。
<作品に盛り込む要素>
- 私個人の自己実現の答え合わせのために10代20代の自分と30代40代の自分を作中で並列に描き、対比し、交差させる。
- 10代20代当時、また、30代40代現在に、私が実際に交流した人々と出来事を描く。個人的なアルバム整理のように。
- 実話をもとにした細かいエピソードや無駄話の集積で、全体の流れを作る。
- 芸術が世界を救うシーンを描きたい。
<設定とあらすじ>
- ある日突然19歳の息子と体が入れ替わってしまった50歳の男が主人公。
- 主人公は「見た目は息子(19)、中身は親父(50)」。
- 自分と入れ替わったであろう息子は行方不明に。ここから捜索の日々が始まる。
- 主人公は移動販売のキッチンカー「パンプキンおかあさん」でアルバイトをしながら行く先々で「自分の顔をした息子」を探す。
- 同僚と2人で毎日キッチンカーで移動しながら「クレープ」を売る。ここの「かぼちゃクレープ」は主人公と息子の想い出の食べ物。
- 主人公は、きっと息子がここの「かぼちゃクレープ」を買いに来るはず、という確信がある。
- 様々な客とのトラブルや出会い。
- 出店先にたびたび現れるライバル店「みかづき」。
- 主人公が息子の友人たちと交流することによって見えてくる息子の夢や悩みや人格。
- そんな日々の中、ある日ついに、自分の顔をした男がクレープを買いに現れる。しかし、どうやら中身は息子ではなく、彼は自分は「マイルス・デイビス」だと言う。
- 「自称マイルス」のおっさん(顔は自分)の事を「噓をついている息子」だと思っている主人公だったが、ある夜、彼が吹くトランペットを聴き、本物のマイルス・デイヴィスである事を確信する。
- 今いるのは「息子になった自分」と「自分になったマイルス」。という事は、息子は「マイルスの中」かもしれない。
- 「息子になった自分」と「自分になったマイルス」と「巻き込まれた同僚」の3人は、キッチンカー「パンプキンおかあさん号」で「マイルスになった息子」を探す消去法的な旅に出る。
~ここでシーズン1終了。まず、ここまで作る。
作んの何年くらいかかるんだろ?
まあ、人生100年だしコツコツとやろう。
ポイントはマイルス・デイヴィスの描き方だ。派手にやろう。