ジョーダン・ピール「NOPE/ノープ」のネタバレとあくまでも私の解釈と考察
2023/01/29
今週サブスクで観ましたよ、ジョーダン・ピール監督の映画「NOPE」。
面白くて3回観ました。ていうか、何度か観ないとわかんない作品かな、とも思います。
面白くて3回観ました。ていうか、何度か観ないとわかんない作品かな、とも思います。
あと、この記事はネタバレします。しますけども、ネタバレしても全然大丈夫な映画だと思うし、この映画はネタバレとかそういう次元の話じゃないとも思うけども、まあ一応ね、免責ってことで、「これはネタバレ記事」です。あと、文中に差別的と受け取られかねない表現があるかもですので、ご理解いただいた上で読み進めてください。
▼予告編動画
ジョーダン・ピール監督は、人種差別問題をテーマに、ホラーテイストの娯楽映画を作ってきました。「ゲット・アウト」や「アス(US)」です。ということは、今回の「NOPE」もそういう方向性ではあるんですが、ちょっと抽象度のレベルが上がってると思います。たぶん、一般的な日本人は、予備知識のない手ぶらの状態だと、ちっともわかんないんじゃないかと思います。つまり、結構ハイコンテクストなアメリカ映画だと思います。
かくいう私も普通の日本人なので、けっこう理解しにくい箇所はあったんですが、たまたま趣味でアメリカ黒人の歴史を調べてたりするので、割とヒントに気づきやすかったのかもしれません。
それでは、まいりましょう。
「O.J」と「ブロンコ」について
「NOPE」の主人公は、ハリウッド用の"タレント馬"を飼育調教している黒人の兄妹。
兄貴は寡黙で内向的、頑固で忍耐強い正確。名前は「OJ」。
兄貴は寡黙で内向的、頑固で忍耐強い正確。名前は「OJ」。
妹は社交的で野心家。我の強い性格。名前は「エメラルド」。
「あなた、OJっていうの?」と撮影所でベテラン金髪白人女優から声をかけられる兄貴。
兄貴の名前は「OJ」。なるほど、これは"O.J.シンプソン"に引っかけてるのかな?と、冒頭からふんわりと匂わせてくる。
"O.J.シンプソン"は、70年代に大活躍した超有名なアメリカの黒人アメフト選手。80年代以降は俳優としても活躍した国民的な「黒人セレブ」といえる。しかし彼は1994年に発生した殺人事件の容疑者となり、警察からの出頭命令をガン無視して友達と車で逃走。その逃走の様子は追跡ヘリからの空撮で全米生中継され、ほとんどの米国民がそれをリアルタイムで目撃する。このときO.J.シンプソンが乗ってた車が1993年製の白い「ブロンコ」というフォードのSUV。
▼O.J.シンプソンの逃走生中継動画
「ブロンコ(bronco)」というのは、放牧されてて、調教が十分でない馬のこと。
O.J.シンプソン事件って、現代アメリカ社会を象徴するような事件で、1995年(約30年前)のトピックなのに、最近のケンドリック・ラマーの曲とかにも引用されたりするくらい、その後のブラックカルチャーに対して影響を及ぼしている事件であり、O.J.は「アメリカと黒人」のストーリーを語る上で欠かせないシンボリックな存在といえる。
▼ケンドリック・ラマーのMV。ディープフェイクでO.Jの顔になるよ
"O.J.シンプソン事件"ってすごく興味深くて、話し始めたらたらキリがなくなっちゃうので、詳しいことはまた今度詳しく書くとして、で、「NOPE」の話に戻します。
本作の主人公のひとり「OJ」は「ブロンコ(調教が十分でない馬)」に乗っているんですけど、この映画の冒頭でキャラの設定がわかってくる段階で、観客としては「はは〜ん。ジョーダン・ピール、今回もやる気ですな。」となるわけです。
今回は「白人が支配する社会で生きる非白人の振る舞い」の話を主軸でやるんだな。と勘づくわけです。
今回は「白人が支配する社会で生きる非白人の振る舞い」の話を主軸でやるんだな。と勘づくわけです。
で、そんな予感が確信に変わるシーンがあります。
それは、序盤でOJの父親が死んでしまうシーン。白馬に乗りカウボーイハットを被った黒人の親父が、上空から落ちてきた小銭を食らって落馬。カウボーイハットが脱げて地面に転がる。そんなシーンです。
ちなみにOJは同じ場所に居たにも関わらず、上空から落ちてきた物には当たらず無傷。
OJは親父と違って"カウボーイハット"を被っていないんです。
最後までずっとOJはカウボーイハットを被りません。
ちなみにOJは同じ場所に居たにも関わらず、上空から落ちてきた物には当たらず無傷。
OJは親父と違って"カウボーイハット"を被っていないんです。
最後までずっとOJはカウボーイハットを被りません。
「偽物のカウボーイ」は、殺される、ということのようです。
馬を飼い慣らし、カウボーイのように振る舞ったOJの親父はあっさり殺されたが、一方、なかなか馬を飼いならせず、カウボーイのようにはなれず、うつむいて淡々と暮らす息子のOJは、生き残る。
さて、気になっちゃうのは、その偽のカウボーイは一体「誰」に殺されるのか?ということです。
当然それは「本物のカウボーイ」に、である。本物のカウボーイとはなんでしょうか。
この映画には、白人男性のカウボーイは登場しません。
その代わりに、あの「Gジャン」と呼ばれるあの飛行生物が「カウボーイ」なのです。
その代わりに、あの「Gジャン」と呼ばれるあの飛行生物が「カウボーイ」なのです。
形状が明らかに、下から見たカウボーイハット。
したがって、この映画の世界では、巨大なカウボーイハットが地上を監視し、飛んで来ては生意気な連中を食い殺しているのです。つまり、「カウボーイ的白人男性による圧倒的な支配」を象徴的に描いているように見えます。
映画の最後の方で、あの化け物は、カウボーイハットのようなわかりやすい形ではなくなり、エヴァの使徒みたいな複雑な形状に変化しますが、あの形状にもきっと意味がある。
おそらく、短絡的に「カウボーイ的白人男性」が支配者なのだ、という事ではなく、今現在はさらに複雑に変化しているんだぞ、という事を表現しているのではないでしょうか。知らんけど。
おそらく、短絡的に「カウボーイ的白人男性」が支配者なのだ、という事ではなく、今現在はさらに複雑に変化しているんだぞ、という事を表現しているのではないでしょうか。知らんけど。
「エメラルド」と「オプラ」について
OJの妹のエメラルドは、レズビアンまたはバイセクシュアルの設定であり、一般的に「マイノリティ」とされるキャラクターです。そしてこのエメラルドこそが、この映画の真の主人公である。
人種的な問題に関わらず、女性に対する差別や不平等はまだまだいたるところにあります。世界はまだそういう状況です。
この映画は、「アメリカにおける黒人女性(更にセクシャルマイノリティ)」が、この世界の最も低い場所である「井戸の底」から、一番高いところを飛ぶ「白人カウボーイ」をぶち抜く物語。つまりこれは、アメリカにおける人種差別・男女差別を基盤とした支配構造に対する批判です。
エメラルドは子供の頃、自分も大きくなったらも父親のように、自分の馬を持って調教をする事を望んでいた。牧場には「Gジャン」という馬がいて、それが自分の馬になるはずだった。しかし、それは叶わなかった。Gジャンは急遽 映画「スコーピオン・キング」に出演することになり、その事をきっかけに兄のOJがGジャンの世話をすることになる。つまり、「Gジャン」というのは、エメラルドにとっては「取り上げられた権利」のようなものである。
エメラルドは、カウボーイハットのような飛行生物を「Gジャン」と名付け、それを撮影して高く売ることで、自分の手に「権利」のようなものを取り戻そうとする。しかも、オプラ・ウィンフリーの番組に買ってもらおうと躍起になるのです。
オプラ・ウィンフリーとは、アメリカで最も成功した黒人女性として有名な芸能人。スーパー成り上がりのビリオネアセレブである(詳細はwikiで見てください)。
オプラ・ウィンフリーとは、アメリカで最も成功した黒人女性として有名な芸能人。スーパー成り上がりのビリオネアセレブである(詳細はwikiで見てください)。
エメラルドが最後の山場で「オプラが待ってる、オプラが待ってる!」と口走りながら上空の怪物をぶち抜こうとするシーンが、かなりエモいわけです。オプラはエメラルドにとって「一つの光」、「成功の存在」であると言えましょう。
ちなみに、兄貴のOJは中盤以降「スコーピオン・キング」のスタッフパーカー(オレンジ色の)をずっと着ているんだけど、映画「スコーピオン・キング」の主演ってドウェイン・ジョンソンっていう黒人とサモア人の血を引く俳優なんですが、この人もO.J.シンプソンみたいに、もともとはアメフトやってて、その後プロレスラーとして大成功して、っていう流れでハリウッドに来たセレブです。言ってみれば、O.J.シンプソンも、ドウェイン・ジョンソンも、「見世物(エンターテイナー)として成功した黒人セレブ」です。この作品の中のOJは、そういった「白人にかましてやった黒人」の象徴的なアイテムや記号にまみれながらも、目を伏せ、自制しながら行動している。いわば、白人カウボーイたちに目をつけられないようにしている。悪目立ちしたり自己主張したりはしない。
このOJを一言で表すなら「自重する黒人男性」といえる。
ちなみに、OJが調教した馬「Gジャン」(エメラルドが調教するはずだった馬)も、結局のところ映画「スコーピオン・キング」では使われなかったようで、OJもまたエメラルドと同じように「認められる権利」を失ったのである。
OJとエメラルドは権利を奪われた存在。彼らの親父も、祖先も同じ。
奪われ続け、認められ得なかった存在の彼らが、この映画の中でいかにして「奪い返す」のか?というのが本作の見どころかと思います。
そんなOJですが、物語の終盤、いよいよ妹を守るためにまっすぐに敵を見据える。「俺は見るんだ!見るぞ!おいお前、見てるぞ!」と言わんばかりにだ。ここも熱いシーンです。
で、ですよ。
やっぱり気になりますよね、「ジュープ」というキャラクターね。
「ゴーディー」と「ジュープ」について
韓国系アメリカ人のスティーブン・ユァンが演じてた、元子役の東アジア系の男"ジュープ"。彼は西部開拓時代をモチーフにしたテーマパークを経営しているんだけど、子供の頃にコメディドラマ(シットコム的なやつ)に出演していた。そのドラマは白人の夫婦とその娘がいて、そこにジュープとチンパンジーのゴーディーが加わった家族がメインキャストであるようだ。そのドラマの撮影中に、普段は従順なチンパンジーのゴーディーが撮影小道具の風船に驚いたのかなんなのかわからないが、ブチギレて出演者をボコボコにする。特に娘役の女の子の顔面をめちゃくちゃに破壊する。おぞましい光景だ。
セットの影に隠れて、その様子を怯えながら見ていたジュープ少年も、やがてゴーディーに見つかってしまう。ジュープ少年を発見したゴーディーは彼を攻撃しない。意外にも、ゴーディーとジュープはグータッチで心を通わせようとする、が、その瞬間に拳銃でゴーディーは射殺されてしまう。
セットの影に隠れて、その様子を怯えながら見ていたジュープ少年も、やがてゴーディーに見つかってしまう。ジュープ少年を発見したゴーディーは彼を攻撃しない。意外にも、ゴーディーとジュープはグータッチで心を通わせようとする、が、その瞬間に拳銃でゴーディーは射殺されてしまう。
これは何を意味しているのか?
どういうエピソードとして捉えたらいいのか?
私は"ジュープ"の意味として「ジャップ」を匂わせてるってこともあるかなと解釈し、「韓国人あるいは日本人」として観ることにした。劇中には何箇所か日本のアニメ「AKIRA」や「エヴァンゲリオン」を思わせるオマージュも見受けられたので、「日本」も無関係じゃないよね、って事で、そのように観てみることにした。
▼AKIRAの金田バイクオマージュ
大前提として、スティーブン・ユァンは、「ウォーキング・デッド」でも韓国系アメリカ人キャラを演じ、2018年の映画「バーニング 劇場版」や、2020年の映画「ミナリ」でも、アメリカに来た韓国系移民を演じている。よって、彼が韓国人であることはアメリカで認知されている俳優だと思われる。
余談ですが、
2013年の「ブラック・ライブズ・マター」が記憶に新しいが、アメリカの人種間問題を遡ってみると、1992年のロサンゼルス暴動、1980年のマイアミ暴動などなど、白人警官による黒人市民への暴行事件は幾度も繰り返し発生しており、それに対する抗議活動や暴動の発生は、リンカーンの時代から収まることなく繰り返されている。なお、このような暴動の周辺には南米系・アジア系・イタリア系のコミュニティも関係しており、「黒人VS白人」という1対1のような単純な対立構造ではなく、もうちょっと複雑な背景もあるようだ。ロサンゼルス暴動では、コリアンタウンもその暴動の被害に遭ってたりするし。
話を戻すと、
まず「ゴーディー」とはなにか?
「ブチギレて暴れたけど、結局殺された猿」である。
これと対(つい)になっているキャラクターはなにか?
「自重する黒人男性」のOJである。
「自重しない非白人」がゴーディー。
「自重する非白人」がOJである。
ゴーディーは白人に対してエグい爪痕(暴動)を残すが、結局は撃ち殺されてしまった。
これを目の前で観ていたジュープ(韓国人あるいは日本人)は、何を思うか?
「歯向かったけど、殺された。」である。
ここがね、私が日本人としてとても考えさせられたところです。
興味深い。非常に興味深いです。
ゴーディーとジュープはお互いに「友達」だと思っている。
あのテーブルの下のグータッチは、スピルバーグの「E.T」である。
この社会で事実上主権を持たない子どもたちが、テーブルの下で心を通わせていたのだ。
しかし、「いい子」にしていられなかったゴーディーは撃ち殺された。
テーブルの下に隠れて、暴れるゴーディーを見ていたジュープって、
ブラック・ライブズ・マターやロサンゼルス暴動の顛末を、隠れて見ているアジア人、というふうにも思えます。
さて、大きくなったジュープは何になったか?
そうです、「カウボーイ」に扮したのです。
カウボーイハットを被って、カウボーイパークでカウボーイのための接待をする。
ゴーディーのようにカウボーイたちに対して歯向かったり、主張したりはしません。
カウボーイハットを被って、カウボーイパークでカウボーイのための接待をする。
ゴーディーのようにカウボーイたちに対して歯向かったり、主張したりはしません。
しかし、心の友達であるゴーディーの事を忘れたりしません。
内緒の隠し部屋を作って、思い出を大切にしています。
自分と"同類"とみなした黒人兄妹、エメラルドとOJにはその秘密のゴーディー部屋を見せて、思い出を共有したりもします。
内緒の隠し部屋を作って、思い出を大切にしています。
自分と"同類"とみなした黒人兄妹、エメラルドとOJにはその秘密のゴーディー部屋を見せて、思い出を共有したりもします。
そんなジュープですが、やがて「自重」するのをやめ、空のカウボーイに対して、ビジネスで「勝負」に出ようとします。
空飛ぶカウボーイハット(Gジャン)に「ブロンコ」を捧げることで、自分もカウボーイのように振る舞おうとするわけです。緊張の面持ちでたどたどしく。
しかし、結局彼もGジャンには「馬鹿か、調子に乗ってんじゃねえよ」という具合に、あっさり食われてしまいます。これは結構悲しいですね。
結局、暴れた猿と同じように始末されてしまいましたとさ。です。
このような悲惨な流れがある中で、OJが男気を見せ、エメラルドがバチコーンと決めてくれるわけです。
私がいいなぁと思ったのは、あの「ジュープ君」みたいなバルーンを使ってがGジャンもろとも爆破することになります。エヴァンゲリオンのように、上空で化け物同士がバトルするようでもあり、見ようによっては、リトル・ボーイ(広島に落とされた原子爆弾)の逆アタックのように捉えられなくもない、っていうとこが、おいおい、ジョーダン・ピール!って思いました。
あとは、映画の一番最初に「わたしはあなたに汚物をかけ、あなたを辱め、あなたを見せ物にする」という、聖書からの一節があるけど、これをどう解釈すればいいのか考えましたが、きっと、この聖書ってのは白人がアメリカに勝手に持ってきたものだから、イコールこれは白人の言葉だと捉えられる。
神を後ろ盾にし、「罰」として"わたしはあなたを見世物にする"、と言っている。
・わたし=支配者である白人男性(カウボーイたち)
・あなた=それ以外の者たち(有色人種や先住民や異教徒や女性たち)
ということではないだろうか?
このイントロの布石があるからこそ、最後の大逆転にカタルシスがあるのだと思う。
この他にも、伝説のカメラマンのホルストというキャラクターが、「パープルピープルイーター」について語っていたりとか、猿に顔面を破壊された女性も元ネタはああだこうだ、とか、まあ細々と仕掛けがいっぱいあるんですが、それはまた別の機会に。
ジョーダン・ピールの「ゲット・アウト」とか「アス」とかって、私にとっては「海外のアメリカの話」くらい離れた距離感でした。もっと言えば、1990年代からアメリカのブラックカルチャーに対して好意と憧れとリスペクトを持って親しんできたエンタメファンの私にとって、今回の「NOPE」はその文脈の中に(ブラックカルチャーの中に)、アジア(日本や韓国)が織り込まれてることで、グッと当事者感を持って鑑賞することができたのが感慨深かったです。
人種やジェンダーの人権問題や歴史認識、現行の社会問題は、非常にナーバスな課題ですが、エンタメや芸術によって知見を広げる機会が得られることが多いので、作品のサブテキストや引用元を手繰って、さらに世界観を広げて行きたいな、と思いました。
"NOPE"という言葉は、「こんなんマジあり得ない」とか「無理無理」とか「無いわー」というニュアンスのフレーズですが、ジョーダン・ピールら作り手側は、「NOPE!」と拒絶する観衆に対してこそ、こういった、受け入れ難いかもしれない世界観を共に見てほしいと思ってるんじゃないでしょうか。
いやぁ、映画って、本当にいいもんですね。