ウサギの孤独とカル元と社会のかさぶたについて

2023/02/17
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「オタク」なるものの定義が、今どんなもんなのかわかりませんが、自分はきっとある種のオタクかもしれないな、と自認しています。

なにか、好奇心をくすぐられるモノと出会った時、とにかくそれを掘り下げ、文脈や関連情報を調べる事に情熱を消費する類の輩を「オタク」と呼ぶんだとしたら、私はきっとその一種だ。

「ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ!」という言葉を昔どこかで聞いたことがあるが、オタクも寂しいと死んじゃうんじゃないかと思っている。かといって、今後「オタク」のことを「ウサギ」と呼ぶには、まだ決定打不足という気がしているので、保留だ。

幸い、私はそんなウサギ的寂しさを感じずに済んでいる。死なずに済んでいる。
その理由は「カルチャー元老院」の存在によるところが大きい。

カルチャー元老院。

個々との関係性や面識の有無などはまちまちだが、私の友人知人の中には、私以上に芸術やカルチャーに造詣が深く、一家言を持つ人々がいる。私は彼らの言葉やレコメンドをフォローし参考にしている。そういう彼らの事をひとくくりにして、私は勝手に「カルチャー元老院」と呼んでいる。
略して「カル元」だ。
私が勝手に呼んでるだけなので、当然、当人たちには知らせてもいない。

「元老院」というのは、正直よくわからないんだけど、イメージ的には「有識者会議の最高機関」っぽいものだと認識している。

私はカル元によって、孤独を紛らわせながら死なずに生きている。
カル元は生命線なのである。

こないだこのブログに書いた、映画「NOPE」の感想記事に、何人かのカル元から反応があった。これは嬉しい。こういうリアクションを得るために、私は記事を書いているのかもしれないな、と思ったりする。ありがとうございます。

映画に限らず、様々な創作物が世の中にはある。音楽や漫画や絵画、お笑いやダンスや諸々の芸術作品、文芸作品の事だ。私はそういう、人間が作った創作物が好きだし、なんなら人間以外が作った創作物も好きだ。AIの奏でる音楽や、ビーバーが作ったダムがそういうものにあたる。

人間が作る創作物というのは、人間の行動の痕跡である。その痕跡には社会背景が映っている。
サブカルチャーやカウンターカルチャーと呼ばれるものは、社会が負った傷や病に対して人間がつくった「かさぶた」のようだと思う。その「かさぶた」は最初は異形だが、そのうちはがれ落ちて新しい皮膚になる。そのようにして、カルチャーは更新されているような気がしている。

目立つ場所に出来た「かさぶた」は気になる。はがしたくなる。
しかし、ちょいちょいいじってるとなかなか治らない。場合によっては大きくなったりもする。

私とカル元は、そんな「かさぶた」を愛でる。

当初は、そのかさぶたの色やカタチを愛でているわけだが、鑑賞することで、なぜそこにかさぶたができたのか、どんな傷が原因か?感染症なのか?他の箇所に同じようなものは無いか?など、関心対象が広がってゆく。そうやって、社会の事を少しずつ知っていく。

創作物を鑑賞することは、社会背景を知る事である。
こういう面白さに気が付く事ができたのが、今回の人生の収穫だと言っても言い過ぎではない。

創作物を評価する上で、私が大事だと思うポイントは、そのものの商品価値や経済効果や表面的な技術力だけではなく、その創作物をきっかけにして、その向こう側にある現実的な広がりを見せてくれるか、である。


アーティストというのは、本来そういう事ができる人の事を指すんだろうなぁ、と思うんだなぁ。

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