センス・オブ・ユーモアが人生には必要だ。
「ここから先は喫煙席です」
と、あからさまに隔離された、ガス室のようなフロアの一角に、その窓側席はある。
私はいつもそのガス室に入り、交差点を見下ろす。
煙草を愛好する身としては、飲食店でこういう扱いをされるのと、あとあのタスポって奴の存在自体にはいつもうんざりさせられるのだが、このファーストフード店のガス室にある窓際席は、私の毎日においては随分と居心地の良い大切な場所だ。
「30歳」という年齢を人生の折り返し地点という風に考えるのは、それ自体が子供っぽく、30歳らしくない発想なのかもしれないが、そんな30歳に私はなった。
人生の折り目をいつに設定するか、また、折り返した向こう側をどう考えるかは、つまり人それぞれの人生観によるところだが、私はこの「30歳」で折り目をつけてみる事にした。
こんな風に言うと、じゃあ「60歳」でジ・エンドかというとそうでも無い気がするが、少なくとも「40歳」を折り返し地点に設定するよりも「30歳」のほうが幾分と往生際が良い気がする。
「29歳」の夏に、今後の人生のほとんどの時間は仕事に費やす事になり、そこからは簡単には逃れられないのだな、という実感をもって、いよいよ私はあきらめた。
「ワーク・ライフ・バランス」なんていうキーワードにも、全く心躍らず、「残業ゼロの仕事術」といった新書を手にとる事もやめた。
つまり、ひっくるめて言うと、「仕事」と「それ以外の自由時間」という分け方をやめた。
結婚をきっかけに、「自分の人生」という考え方もやめた。
もう、細かい事はいい。
ざっくりと、「ディス・イズ・マイ人生、アイラブユーオーケー。」といった感じである。
そんな、マイ人生折り返し地点の昼下がり、
ファーストフードのガス室の窓側席で、休日の人々や車の往来を眺める。
さっき買った文庫の小説を読みはじめてみる。
昔は文学や音楽、映画や美術などの文化的娯楽は、私の中では大変重要なものだった。
自分を構成する成分の半分以上を占めていると感じていた程に。
今は、ちょっと違う。なんと言うか、いわば、復活の呪文というか、パスワードのようなものである。
例えば今日は、村上春樹の短編集の文庫本を買った。700円。
この本はすでに持っているし何度も読んだので、どの話が良くて、どの話が好きじゃないか、という事もすっかり知っている。
しかしながら、今日このガス室の窓際席に来るために必要だったのだ。
この店のこの席が私にとって重要なのは、まず「交差点」を見下ろす事ができるという事。
普通の「通り」ではいけない。「交差点」でないとダメだ。
普通の「通り」だと、人々はただの歩行者であり、私は彼等「歩行者」の「歩行」する姿を目で追いつづけるという、至極単調な関わり方しか出来ない。
一方「交差点」は一味違う。彼等はただ「歩行」するだけではなく、信号を待ち、時にイラつき、青い点滅にあせり、走り出す事もある。
私は彼等を眺めては、ああでもない、こうでもない、と、空想をするのである。
”彼はこれから出かけるのだろうか、それとも帰る途中だろうか。”
”彼女は恋をしているだろうか”
”あのイヌは、自分の境遇に満足か”
センス・オブ・ユーモアが人生には必要だ。
絶望防止運動の一環として、ペーソスという考え方も有効だ。
世の中や人生を歩くとき、私はタフネスよりもこれらを大事にしたい。
私は呪文を唱えるように小説を読んで、世の中対してメガネをかける。
「おでこのメガネでデコデコでこりーん」といった具合に。
いろいろ試したが、特に村上春樹は効きが早い気がする。
「交差点」にいくつものストーリーが生まれ、さっきまでとは違う風景に見える。
ちなみに、宗教の本質ってこういう事なんだろうなと思う。
山積みの具体的な現実問題を片付けるのが目下の「仕事」であり「生業」であり、それらが人生のほとんどだ。しかしながら忘れてはいけないなと思うのは、こういった「創造的視座」である。
文化や芸術を「娯楽」や「癒し」や「夢や希望」という風に、なんか適当な脇道に追いやるような捉え方があったりするが、全くの間違いである。
少なくとも私にとっては、実用性の高い技術のひとつである。
村上春樹もピーター・ドラッカーもお釈迦様もバクシーシ山下も、つまりは同じなのさ。
おわり。