4時起床、ラインの外で価値を探すことについて

2023/02/21
4時に目が覚めて、窓の外を観ると雪で真っ白。おはようございます。
こんなふうに、誰も起きていない時間に足跡ひとつついていない白い地面なんかを眺めていると、なんかのメタバース的な世界に、一番乗りで来ちゃったプレイヤーのような感じがしますね。

最近、いろいろと映画見たり本読んだりしてるんですけどね、ちょっと気になっていることがあって。

新しめの映画や小説に限ったことではないとは思うんですが、
例えば、学校における「校則」、社会における「法律」、宗教における「教義」のような、共同体の維持を目的としたルールってあるじゃないすか?で、そのルールを「守る」と「破る」の間にある境界線の事を仮に「ライン(線)」と呼ぶとしますね。ラインの内側がセーフ、外側がアウト、となっている。

ラインはなぜ存在するか?
ルールによって秩序を得た共同体があるからだ。
その共同体が「内側」と名乗って自認する時、それ以外は「外側」となり、その瞬間にラインが生まれる。
そして、「内側」の秩序を保つためにラインの位置は維持される。


ラインがある以上、内側から外側に出る、あるいは、外側から内側に入ってくる、というケースがあり得る。


<ラインを越える者、その経緯と顛末>

私が最近触れた映画やドラマや書籍などの作品のほとんどが、こういう事をテーマにしている。
これって、「物語」の定石というやつなのか、いや、たまたま観た作品がそういう傾向だったのか。まあどっちでもいいんですけどね。


かつては、外側の者(アウトサイダー)が、内側で成功する物語っていうのがエンタメ作品にいっぱいあったと思う。
その逆に、内側にいた者が外側に出て成功する物語というのもあるが、意外とそれも、「別の内側」に引っ越しただけパターンだったりするので、結果的に、「内側でサクセス」のバリエーションだ。

問題は、内側から外にでちゃう物語だ。秩序の外へ、だ。
こういうのって、破滅的、または、悲劇的に見えるけど、それは「内側の人の視点」から思うからそうなのであって、仮に、秩序の外へ出ることで得られる価値があるのだとしたら、それは一体なんなのだろうか?という想像力が、真にクリエイティブな態度なんじゃないか?
とかね、そういうふうな事を考えています。

映画や物語だけの話ではなくて、音楽や視覚芸術にも言えることだなと思います。
秩序の外に価値を探すという行為は、危険で暴力的、だからこそ官能的でクリエイティブなんだ、と。

これは、エコノミーとは関係のない話。

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