謙虚日記ビギンズ
2023/03/28
私はなぜ日記が書けないのか。このブログも、できれば毎日その日のことを書き、淡々と粛々と更新したいものだと常々思っている。しかしできない。なかなかできない。私の生活サイクルの中で「習慣化」していないからだろう。
小学生の私の娘は、割とちゃんと宿題をやる。夏休みとかの長い休みの宿題も結構初日から淡々とやるタイプだ。えらいなぁ、と思う。私は夏休みの宿題を、8/29~9/1(早朝)にまとめてやってしまうタイプだったし、今でもそういう傾向が強い。
宿題をする娘の背中に、「お前はえらいな。」と言うと、振り返ってこうだ。
「明日やろう、は、バカ野郎。」
"やろう"で韻を踏んでいる。
こういうのは小学校で教わるのだろうか?「いかのおすし」みたいなやつかな。
こういうのは小学校で教わるのだろうか?「いかのおすし」みたいなやつかな。
確かに、今日のことは今日やるべきだ。日記もそうでないといけない。その日あったことをその日の最後に記録するべきだ。忘れてしまう前に。
私は、今日のことであれ去年のことであれ、過ぎ去った日々を顧みることにあまり価値を感じない性格なのかもしれない。たとえば仕事の実績や評価、プライベートで起きたファインプレーや善行、人からの親切や恩義など、そういうものに対しても執着がない。使い捨てコンタクトレンズのようにしてしまうことも多い。非情で不義理だと思う。しかしこのサイコパスっぽく感じられる姿勢には一応根拠があって、未来に対する「過度な楽観」によるものだ。
子供のころから、プレッシャーを感じた時や苦境に陥ったときに唱える呪文として「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、」っていうフレーズを愛用してきた。母親からよく聞かされていた記憶がある。
きっとこの呪文は、脳内で強制的にドーパミン的なやつを出す効果があるんじゃないかと思っている。ドーパミンの影響で「俺ならうまくやる」という無根拠な自信と肯定感を引き起こし、アクセルを踏み込ませるのだ。ティモンディ高岸の「やればできる」っていうあれは本当にそう。
しかし、この「為せば成る」もあらゆる局面で多用してゆくと変化が生じてくる。
「為せば成る、一度成ったらまた成れる」という感じで、自分の中で勝手にバージョンアップしてゆくのだ。
「為せば成る、つーかいつでも成れんじゃね?為しさえすれば」というような軽薄さも巻き込んで。
その結果、過去の実績や、成功した事、良かった事などを、「またできるっしょ」という風にないがしろにしてしまう。それが私という人間です。日本昔話だったらそろそろ罰が当たるころでしょう。右だけじゃなくて左のほっぺにもこぶが出始める頃です。
あらためたい。
できるだけ謙虚にならないとだめだ。
お中元とかお歳暮とか、そういうのもちゃんとしたい。
来年からはちゃんと年賀状の返事も書く。
あと、日記もできるだけ書く。
日記を毎日書くことと謙虚さの獲得にはあまり関係がない感じもするが、「いつでもできる」という無根拠な楽観を抑制するためにも、コツコツとした作業が修行として必要なんじゃないかなと。
明日やろう、は、バカ野郎。ってことだし。