意味も時代も飛び越えてくれ
2009/01/09
僕は1990年代に10代を過ごした。
当時は音楽だって映画だってファッションだって、
60年代カルチャーがリバイバル的にもてはやされていたようだった。
が、しかし、子供の我々は何にも知らないわけで、古いも新しいも無く、
全てがあたりまえに新鮮だったように思える。
当時は「DJ的」な感覚がもてはやされていた。
今あえてコレ。とか、逆にコレがかっこいい。とか。
そういう感じだったと思う。
何か、ひとつのカテゴリに特化して掘り下げるのではなくて、
全てを表層的に捉え、組み合わせと、配列と、タイミングを武器にして、
新鮮な価値を産んでいた時代。
DJ的な時代。
引用の時代。
そういう時代が多感な思春期に与える影響は大きい。
1を聞いて10を知れるようなからくりを孕んだカルチャー。
僕がDJの連中を好きな理由は、そんな体験から来るのだろう。
去年だったか、渋谷のクラブイベントで遭遇した
「パビリオン山椒魚」の映画監督、冨永昌敬さんのDJは面白かった。
モダンジャズ、音響系、ヤクザ映画の台詞、ツービートの漫才など、
繋がり様も無さそうな情報がドラマチックに編集され、
心底かっこいいな、ユニークだなと、感動した。
引用と批評とリアルタイム性
そして、個人的であること。
それは、メディアとしてインターネットがもっとも特化した部分。
インターネットはいわば情報の権化なわけだけど、
ここでいかに溺れずに、個人的なフィルターをもって、組み合わせと、配列と、タイミングで、
ナイスな情報をピックアップしていけるかが、おもしろいブログを作る上で大事な部分かな、
と思う。
あの頃の僕らのDJみたいに、
この、更新されて増え続ける情報の中から、
意味も時代も飛び越えて、痛快にナビゲートしてくれる奴が、
ブログという形でそのうち出てくると思う。
そう思うと、わくわくする。
わくわくさん。
おわり。

当時は音楽だって映画だってファッションだって、
60年代カルチャーがリバイバル的にもてはやされていたようだった。
が、しかし、子供の我々は何にも知らないわけで、古いも新しいも無く、
全てがあたりまえに新鮮だったように思える。
当時は「DJ的」な感覚がもてはやされていた。
今あえてコレ。とか、逆にコレがかっこいい。とか。
そういう感じだったと思う。
何か、ひとつのカテゴリに特化して掘り下げるのではなくて、
全てを表層的に捉え、組み合わせと、配列と、タイミングを武器にして、
新鮮な価値を産んでいた時代。
DJ的な時代。
引用の時代。
そういう時代が多感な思春期に与える影響は大きい。
1を聞いて10を知れるようなからくりを孕んだカルチャー。
僕がDJの連中を好きな理由は、そんな体験から来るのだろう。
去年だったか、渋谷のクラブイベントで遭遇した
「パビリオン山椒魚」の映画監督、冨永昌敬さんのDJは面白かった。
モダンジャズ、音響系、ヤクザ映画の台詞、ツービートの漫才など、
繋がり様も無さそうな情報がドラマチックに編集され、
心底かっこいいな、ユニークだなと、感動した。
引用と批評とリアルタイム性
そして、個人的であること。
それは、メディアとしてインターネットがもっとも特化した部分。
インターネットはいわば情報の権化なわけだけど、
ここでいかに溺れずに、個人的なフィルターをもって、組み合わせと、配列と、タイミングで、
ナイスな情報をピックアップしていけるかが、おもしろいブログを作る上で大事な部分かな、
と思う。
あの頃の僕らのDJみたいに、
この、更新されて増え続ける情報の中から、
意味も時代も飛び越えて、痛快にナビゲートしてくれる奴が、
ブログという形でそのうち出てくると思う。
そう思うと、わくわくする。
わくわくさん。
おわり。
