大人の映画「まぼろし」
2009/08/23
ある映画の事を書いてみたいと思う。それは随分前に見た映画だ。
シリアスに自分の事について語り出すとき、少年は夢を語り、青年はアイデンティティや自意識について語りだす。とりわけブログのような個人的なメディアを手に入れた今の私たちは、そんな風に語りだす事に慣れ始めてきて久しい。
自分の考えを語る対象は多く、それはTVや新聞で見たニュースであり、先週観た映画やDVDの感想であり、身の回りで起こった事に対する感動や中傷、といろいろだ。
それらを通して、自分はこうなんだ、と表現し、確認をする。
青年が荒野を目指す理由、僕等が旅に出る理由、というのがある。ロマンチックでヒロイックで、どこか感傷的な響きだ。そう、これが僕の語るべき事だ、僕の存在理由の手がかりがあるはずだ、という具合の、ドキドキした危うい自意識の高まり。青年が語るべき言葉はこうあってしかるべきだ。
さて、その向こう側にある存在、つまり、そういった青年期を過ぎて新しいフェーズに至った者たちが、それでも自分を語り出すには、どのような事柄があるのだろうか。
私がまだ24歳で、独り身で、無軌道であったならば、やはり自意識の塊のように、ロマンチックでヒロイックかつ甘酸っぱく語りだすに違いない。事実、過去の日記を見返すとやはりそんな感じなのだ。
私は今、自分の事を、もはやいわゆる「青年」では無いと感じている。
しかしながら、「酒と泪と男と女」みたいな、ブルーズな気分がしっくりくるような、そんなしょっぱい状態では決してない。
人生が辛いとか、男はどうのこうのだ、とか、そういうのは逆に笑える。
私は結婚をした。つまり生涯を共にする女性がいる。
「家族」という事や「人生」という事にもリアルに思いをめぐらす。
子供が出来たら、もっと具体的になって来るのだろう。
このような段階を仮に「大人」と呼ぶとしたら、果たしてそんな「大人」はかつての「青年」のように、自意識やアイデンティティについて語り出したりするのだろうか。私にはあまりピンとこない。そういう人ってあまりいないんじゃないだろうか。
私は「青年」の頃に、ある映画を見た。
フランソワ・オゾン監督の「まぼろし」という映画だ。2001年のフランス映画だ。
20代前半に確か渋谷の映画館で見たんだと思う。

連れ添って25年になる50代の夫婦がいる。
ある日2人はビーチに海水浴に出かける。
妻が砂浜に横たわり、居眠りをしている間に、
夫が、何の痕跡も残さずにそのビーチから姿を消してしまう。
失踪か、事故か、自殺か。
手がかりは全く無いまま月日は過ぎる。
妻は突然の夫の喪失を受け入れる事が出来ず、
度々、夫のまぼろしを見る。
その後、妻は友人の紹介である男性と知り合い、
やがてベッドを共にするが、妻はその男とのセックスの最中、
「何か違うの。あなた軽いんですもの」と言って、思わず笑い出す。
その後も男との関係は続くのだが、妻は夫のまぼろしを見続けていた。
やがて男は「もう自分のことを考える時だ」と忠告するが、妻は取り合わない。
妻は男に「あなたには重みがないのよ」と冷たく言い放つ。
そしてある日、夫と思われる水死体が見つかったと警察から連絡が入る。
ラストシーンはここでは書かないが、
深く考えさせられる結末だった。
当時観たときは、特にどうとも思わなかったが、今になって時間差で感慨深い。
「結婚したから」という理由だけではない変化が、自分にはあったのだろうなと思った。
自意識やアイデンティティというものは、たぶん、その輪郭を変えてゆくものだ。
「他人」という存在の定義についても同様に。
自分自身に対して大きく関わっている存在をも含みながら、人生は進んでゆく。
そして、その存在の喪失は、やがて必ず訪れる事だ。
「青春の終わり」や「死」、というのは、ある意味ロマンティックであり、
抽象的なグラデーションの中にあるあいまいなものだと思う。
そして何より、個人的で孤独なステージに起こる出来事のように思う。
しかしながら「他人」というものを含んだ自分は、その喪失に対して、ロマンチックになんてなれないと思うのだ。ただひたすらの喪失が、ぽっかりとやってくる。
自分が死ぬ事に対しては、抽象的な事として考えられるかもしれないけど。
青春期特有の、自分はどう存在すべきなのか、という問題とは別に、他人にとって私はどのように存在し、その他人は自分にとって存在しているのかという、いわば「関係」という事に対する意識が、きっと大切な事としてあるんだと感じる。
ひょっとしたら、「愛」なんてのは、大人が使う言葉じゃないぞ、とも思うのだ。
青年のような温度で「大人」を語る事のできる、等身大のおじさんになりたいものだ。
と、まあ、この「まぼろし」はそんな「大人」の映画だったのだな、
と今になってなんとなく思う。
あと、主演のシャーロット・ランプリングが美しい。
シリアスに自分の事について語り出すとき、少年は夢を語り、青年はアイデンティティや自意識について語りだす。とりわけブログのような個人的なメディアを手に入れた今の私たちは、そんな風に語りだす事に慣れ始めてきて久しい。
自分の考えを語る対象は多く、それはTVや新聞で見たニュースであり、先週観た映画やDVDの感想であり、身の回りで起こった事に対する感動や中傷、といろいろだ。
それらを通して、自分はこうなんだ、と表現し、確認をする。
青年が荒野を目指す理由、僕等が旅に出る理由、というのがある。ロマンチックでヒロイックで、どこか感傷的な響きだ。そう、これが僕の語るべき事だ、僕の存在理由の手がかりがあるはずだ、という具合の、ドキドキした危うい自意識の高まり。青年が語るべき言葉はこうあってしかるべきだ。
さて、その向こう側にある存在、つまり、そういった青年期を過ぎて新しいフェーズに至った者たちが、それでも自分を語り出すには、どのような事柄があるのだろうか。
私がまだ24歳で、独り身で、無軌道であったならば、やはり自意識の塊のように、ロマンチックでヒロイックかつ甘酸っぱく語りだすに違いない。事実、過去の日記を見返すとやはりそんな感じなのだ。
私は今、自分の事を、もはやいわゆる「青年」では無いと感じている。
しかしながら、「酒と泪と男と女」みたいな、ブルーズな気分がしっくりくるような、そんなしょっぱい状態では決してない。
人生が辛いとか、男はどうのこうのだ、とか、そういうのは逆に笑える。
私は結婚をした。つまり生涯を共にする女性がいる。
「家族」という事や「人生」という事にもリアルに思いをめぐらす。
子供が出来たら、もっと具体的になって来るのだろう。
このような段階を仮に「大人」と呼ぶとしたら、果たしてそんな「大人」はかつての「青年」のように、自意識やアイデンティティについて語り出したりするのだろうか。私にはあまりピンとこない。そういう人ってあまりいないんじゃないだろうか。
私は「青年」の頃に、ある映画を見た。
フランソワ・オゾン監督の「まぼろし」という映画だ。2001年のフランス映画だ。
20代前半に確か渋谷の映画館で見たんだと思う。

連れ添って25年になる50代の夫婦がいる。
ある日2人はビーチに海水浴に出かける。
妻が砂浜に横たわり、居眠りをしている間に、
夫が、何の痕跡も残さずにそのビーチから姿を消してしまう。
失踪か、事故か、自殺か。
手がかりは全く無いまま月日は過ぎる。
妻は突然の夫の喪失を受け入れる事が出来ず、
度々、夫のまぼろしを見る。
その後、妻は友人の紹介である男性と知り合い、
やがてベッドを共にするが、妻はその男とのセックスの最中、
「何か違うの。あなた軽いんですもの」と言って、思わず笑い出す。
その後も男との関係は続くのだが、妻は夫のまぼろしを見続けていた。
やがて男は「もう自分のことを考える時だ」と忠告するが、妻は取り合わない。
妻は男に「あなたには重みがないのよ」と冷たく言い放つ。
そしてある日、夫と思われる水死体が見つかったと警察から連絡が入る。
ラストシーンはここでは書かないが、
深く考えさせられる結末だった。
当時観たときは、特にどうとも思わなかったが、今になって時間差で感慨深い。
「結婚したから」という理由だけではない変化が、自分にはあったのだろうなと思った。
自意識やアイデンティティというものは、たぶん、その輪郭を変えてゆくものだ。
「他人」という存在の定義についても同様に。
自分自身に対して大きく関わっている存在をも含みながら、人生は進んでゆく。
そして、その存在の喪失は、やがて必ず訪れる事だ。
「青春の終わり」や「死」、というのは、ある意味ロマンティックであり、
抽象的なグラデーションの中にあるあいまいなものだと思う。
そして何より、個人的で孤独なステージに起こる出来事のように思う。
しかしながら「他人」というものを含んだ自分は、その喪失に対して、ロマンチックになんてなれないと思うのだ。ただひたすらの喪失が、ぽっかりとやってくる。
自分が死ぬ事に対しては、抽象的な事として考えられるかもしれないけど。
青春期特有の、自分はどう存在すべきなのか、という問題とは別に、他人にとって私はどのように存在し、その他人は自分にとって存在しているのかという、いわば「関係」という事に対する意識が、きっと大切な事としてあるんだと感じる。
ひょっとしたら、「愛」なんてのは、大人が使う言葉じゃないぞ、とも思うのだ。
青年のような温度で「大人」を語る事のできる、等身大のおじさんになりたいものだ。
と、まあ、この「まぼろし」はそんな「大人」の映画だったのだな、
と今になってなんとなく思う。
あと、主演のシャーロット・ランプリングが美しい。