ブコウスキー 老人とMac
2009/08/25
チャールズ・ブコウスキー。
18歳のとき、アートノノバの長谷川先生にすすめられて読んだのが最初だったっけ。
たしか「パルプ」という小説だった。
当時私は、アメリカのビート文学にかぶれており、ケルアックだの、ギンズバーグだの、バロウズだの、と、そんなものばかり読んでいた。
文学をやるという事が、これほどカッコいいものだと、初めて知ったのもこの頃だった。
それは例えばこういう事だ。
私は子供の頃から、スポーツもダメで勉強も普通だったが、マンガやイラストを描くのが上手だったので、それを自分の個性であり自慢できるところだ、と自負しながら残酷な少年期を生き抜いてきた。
しかし、高校生になる頃、つまり思春期もピークを迎え、童貞である事がいたたまれなくなるあの頃、ある事に気が付いた。
「絵が上手ってのは、へタすりゃモテないぞ。」
スポーツやケンカが得意ならば、「雄」というセックスアピールが直接的に表現できるのに対して、イラストが上手なんて特技は屁の役にも立たん。そう思ったのだった。
絶望。
でも、そんな時、ヒップホップのグラフィティというものを知って、俄然勝機を感じたのを覚えている。

絵を描くことがこんなにもカッコよく、魅力的である事に衝撃を受けた。セクシーにすら感じたものだ。
かといって、どうにもB-BOYになれなかった私は、それから長い旅路に出るのだが、その顛末はまた別の話。
さて、話を戻そう。
文学がカッコいいなんて思っていなかったのは、やはりさっきの「絵」の話と同様だ。
それまで、文学なんてものは、ジジイや、ブスや、結核患者が書いている、暗くて辛いイメージがあった。ましてやモテるなんて事はありえないと思っていた。
北方謙三がハードボイルドを書いてても、あいつ、一滴も酒飲めないし、ってことも知っていたし、そもそも格好いいなんてお世辞にも思えなかった。
直木賞作家の志茂田なんちゃらは変態だし、田中康夫は顔が粘土。
本当に素敵な小説を書く吉本ばななも、こういっちゃなんだけど、ブス。
その頃私が知っている範囲の文学のイメージは、そんな感じだった。
モテない連中が、背中を丸めて、せっせと字を書いて銭を稼いでいる。
しかしながら、ビートニク。
ケルアックだの、ギンズバーグだの、バロウズだの、である。

セックス・ドラッグ・タイプライター。そしてバイセクシャルでヒッピーでインテリだった。
彼等の作品はいつも粗っぽく、ドラッグとセックスと暴力にまみれていた。
しかしそれが詩的であり、ある種の聖性を持っていた。
思春期の若者は、何時の時代もそういうものに惹かれるのだろうか。
私はそのスタイルや価値観に憧れていた。
そんな中すすめられた、チャールズ・ブコウスキーの小説。
チャールズ・ブコウスキーも酔っ払いだった。
彼の作品は、自伝とも創作とも感じられるものであり、やけに生々しくリアルに汚れ荒んだ描写に満ちていた。猥雑で下品でスケベで狂っていた。
しかし、このブコウスキーもまたビート文学のように、猥雑で汚れた中に知性とフィロソフィーを感じさせるものが多くあった。
彼の「町でいちばんの美女」という短編集の中に「人魚との交尾」という話がある。
夜中に酔っ払った2人のうらぶれた中年男が死体置き場から死体をかっぱらってくる。その死体は腰まで達するブロンドをもつ美しい女の死体だった。あまりの美しさに思わず2人はその死体とセックスをする。やがて拒むことなく快楽を与えてくれたその女に、男たちは愛しさを感じ涙する。
「長い金髪の女。人魚にそっくりだった。きっと彼女は人魚だったんだ。ついにトニーは波のむこうに死体を押し出した。静かだった。夜明け前のひととき。彼は少しのあいだ彼女といっしょに波間にゆれた。静寂があたりを支配した。時間のまっただなか。そして時空をはるかに超えた時間のなか」
なんて最低な小説なんだ!と笑ったものだが、人間の業を、安いポートワインで丸呑みに流し込んでしまうような、乱暴で粗野だけど、どこか暖かい印象が魅力的な作品だ。
ブコウスキーの小説の中には、安いワインと安い商売女とうらぶれた酔っ払いと、彼等の汚物に溢れている。「ファック」や「糞」という言葉がなぜか愛しい言葉に聞こえてくる。不思議だ。
そんなブコウスキー。
彼の作品は、手に取れるものから、いくつか読んだが、一番好きなのはこれだ。
「死をポケットに入れて」

愛用のタイプライターから、マッキントッシュに乗り替え、1991年の8月から1993年の2月まで書きつづけられた老人の日記的なコラム。

内容は、その日にあった出来事を中心に、あらゆる事に思いをめぐらせて自由に書いている。
ほとんど「ブログの書籍化」ような一冊。
私が老人になっても、おそらくインターネットはあり、
ブログのようなメディアも存在しているだろう。
歳をとったら、こういう感じに生活や世界や人生を書けるようになりたいなぁ、と、
また憧れてしまっている。
豊かさ正しさや美しさという事を実感するには、
それぞれの人生に哲学が無ければならない。
そんな風に、この酔っ払いは教えてくれた気がする。
するのだ。
18歳のとき、アートノノバの長谷川先生にすすめられて読んだのが最初だったっけ。
たしか「パルプ」という小説だった。
当時私は、アメリカのビート文学にかぶれており、ケルアックだの、ギンズバーグだの、バロウズだの、と、そんなものばかり読んでいた。
文学をやるという事が、これほどカッコいいものだと、初めて知ったのもこの頃だった。
それは例えばこういう事だ。
私は子供の頃から、スポーツもダメで勉強も普通だったが、マンガやイラストを描くのが上手だったので、それを自分の個性であり自慢できるところだ、と自負しながら残酷な少年期を生き抜いてきた。
しかし、高校生になる頃、つまり思春期もピークを迎え、童貞である事がいたたまれなくなるあの頃、ある事に気が付いた。
「絵が上手ってのは、へタすりゃモテないぞ。」
スポーツやケンカが得意ならば、「雄」というセックスアピールが直接的に表現できるのに対して、イラストが上手なんて特技は屁の役にも立たん。そう思ったのだった。
絶望。
でも、そんな時、ヒップホップのグラフィティというものを知って、俄然勝機を感じたのを覚えている。

絵を描くことがこんなにもカッコよく、魅力的である事に衝撃を受けた。セクシーにすら感じたものだ。
かといって、どうにもB-BOYになれなかった私は、それから長い旅路に出るのだが、その顛末はまた別の話。
さて、話を戻そう。
文学がカッコいいなんて思っていなかったのは、やはりさっきの「絵」の話と同様だ。
それまで、文学なんてものは、ジジイや、ブスや、結核患者が書いている、暗くて辛いイメージがあった。ましてやモテるなんて事はありえないと思っていた。
北方謙三がハードボイルドを書いてても、あいつ、一滴も酒飲めないし、ってことも知っていたし、そもそも格好いいなんてお世辞にも思えなかった。
直木賞作家の志茂田なんちゃらは変態だし、田中康夫は顔が粘土。
本当に素敵な小説を書く吉本ばななも、こういっちゃなんだけど、ブス。
その頃私が知っている範囲の文学のイメージは、そんな感じだった。
モテない連中が、背中を丸めて、せっせと字を書いて銭を稼いでいる。
しかしながら、ビートニク。
ケルアックだの、ギンズバーグだの、バロウズだの、である。

セックス・ドラッグ・タイプライター。そしてバイセクシャルでヒッピーでインテリだった。
彼等の作品はいつも粗っぽく、ドラッグとセックスと暴力にまみれていた。
しかしそれが詩的であり、ある種の聖性を持っていた。
思春期の若者は、何時の時代もそういうものに惹かれるのだろうか。
私はそのスタイルや価値観に憧れていた。
そんな中すすめられた、チャールズ・ブコウスキーの小説。
チャールズ・ブコウスキーも酔っ払いだった。
彼の作品は、自伝とも創作とも感じられるものであり、やけに生々しくリアルに汚れ荒んだ描写に満ちていた。猥雑で下品でスケベで狂っていた。
しかし、このブコウスキーもまたビート文学のように、猥雑で汚れた中に知性とフィロソフィーを感じさせるものが多くあった。
彼の「町でいちばんの美女」という短編集の中に「人魚との交尾」という話がある。
夜中に酔っ払った2人のうらぶれた中年男が死体置き場から死体をかっぱらってくる。その死体は腰まで達するブロンドをもつ美しい女の死体だった。あまりの美しさに思わず2人はその死体とセックスをする。やがて拒むことなく快楽を与えてくれたその女に、男たちは愛しさを感じ涙する。
「長い金髪の女。人魚にそっくりだった。きっと彼女は人魚だったんだ。ついにトニーは波のむこうに死体を押し出した。静かだった。夜明け前のひととき。彼は少しのあいだ彼女といっしょに波間にゆれた。静寂があたりを支配した。時間のまっただなか。そして時空をはるかに超えた時間のなか」
なんて最低な小説なんだ!と笑ったものだが、人間の業を、安いポートワインで丸呑みに流し込んでしまうような、乱暴で粗野だけど、どこか暖かい印象が魅力的な作品だ。
ブコウスキーの小説の中には、安いワインと安い商売女とうらぶれた酔っ払いと、彼等の汚物に溢れている。「ファック」や「糞」という言葉がなぜか愛しい言葉に聞こえてくる。不思議だ。
そんなブコウスキー。
彼の作品は、手に取れるものから、いくつか読んだが、一番好きなのはこれだ。
「死をポケットに入れて」

愛用のタイプライターから、マッキントッシュに乗り替え、1991年の8月から1993年の2月まで書きつづけられた老人の日記的なコラム。

内容は、その日にあった出来事を中心に、あらゆる事に思いをめぐらせて自由に書いている。
ほとんど「ブログの書籍化」ような一冊。
私が老人になっても、おそらくインターネットはあり、
ブログのようなメディアも存在しているだろう。
歳をとったら、こういう感じに生活や世界や人生を書けるようになりたいなぁ、と、
また憧れてしまっている。
豊かさ正しさや美しさという事を実感するには、
それぞれの人生に哲学が無ければならない。
そんな風に、この酔っ払いは教えてくれた気がする。
するのだ。