魂は救われない、愛も神様もない。だとしても大丈夫。「シークレット・サンシャイン」
交通事故で夫に先立たれた中年の女と、まだ5歳くらいのその息子が、夫の生まれ故郷の街「密陽(ミリャン)」に引っ越してくるところからこの物語ははじまる。
あとのあらすじは、エガちゃんにおまかせ。
そして、そして、救われない彼女の魂は、
いや、私たちの魂は、どうすれば救われるのか?
というお話なのですが。
この映画は、罪と罰の話でも、宗教の話でも、家族の話でもない。
なんていうか、もっと身近であたりまえな事がテーマだと思った。
なんか世の中には「あたり前だけど大切な事」っていうのがあり、
子供の頃や若いときにはちっとも実感できないんだけど、
年齢を重ねるとわかるようになるじゃないですか?
例えば「勉強しとけ」とか「貯金しとけ」とか。
親とか先輩とか、いわゆる年上の人の言う事は、
基本的には間違っていないな。と。
そんな「あたり前だけど大切な事」を言うために、
ここまでやるか!イ・チャンドン!
この映画は、物語は劇的だし、ショッキングかも知れない。
夫に先立たれて、息子も殺されて、
信仰で一度は救われるが、それすらも信じられなくなる。
精神が病んで、狂ってしまう。そんな女の話。
しかもその女を演じる女優が、超迫真の演技。
ハードです。
そして私の感想ですが、この映画が伝えようとしている事は、
主人公が、洋品店の女主人と話すシーンに集約されてる。
特にラストのところ。
洋品店の女主人は、劇中、何回か登場します。
・主人公が、引っ越して来た日に挨拶に行くシーン。
・美容院で陰口言って、鉢合わせちゃった気まずいシーン。
・寄り合いのカラオケで、意気投合するシーン。
・明るくなった主人公と飯食っておしゃべりするシーン。
・主人公の退院後、洋品店の前でお喋りするシーン。
この、最後の主人公の退院後、洋品店の前でお喋りするシーンで、
私は「そうだよな、そういう事だよ。」と頷いたのでした。
精神病院から退院したばかりの主人公が散髪の途中で美容院を飛び出したせいで、髪型がおかしな事になっているのを見て、
女主人「その髪どうしたの!?」
主人公「…気に入らないから途中で出て来ちゃった。」
女主人「は!?頭おかしいんじゃないの?…あ、あらヤダごめん。」
こんな感じの会話で、2人は道ばたで笑うのである。
主人公はここでやっと笑顔になるのである。
こういう事ですよ。
これこそが、いわゆる「隣人」というものの本質なんですよ。
それよりさ、ソン・ガンホね。


このキャラクターが非常に重要なんです。
下世話で能天気で無責任で、事態を少しも理解していない男。
よかれと思って、主人公にいろいろとおせっかいを焼くが
決して100%の善意ではなく、半分以上が下心である。
このストーリーに置ける主人公の置かれている状況を
特に我が事のようには感じていない。
「まぁ大変だろうけどさ、どうにかなるだろ。タバコがうめぇ。」
そんな軽いノリ。
しょっちゅう母親から電話かかって来て、
ちゃんと食べてるか?とか、おせっかいを言われてて、
うるせぇなもう、喰ってるよ!忙しいからもう切るぞ!とかさ。
こいつのこんなシーン、この物語に必要か?とか思ったけど、
いやいや、これがかなり重要だとおもうんです。
この男は「世間」や「コミュニティ」というものを
体現しているキャラクターだとおもいました。
この映画で言えば、この男こそが「韓国」なんだと思います。
世間ってやつは無自覚に親切でいて、同時に無関心でもある。
無自覚に求め、無自覚に突き放す。
決して相手の事を理解し、愛し、救ったりはしない。
一緒に苦しんだり、代わりに犠牲になったりもしない。
そういう大きなものを、このソン・ガンホは演じている。
例えばこの映画をそっくりそのまま日本に持って来たら、
さしずめ、ソン・ガンホは明石家さんま。
役所広司や佐藤浩市では決してないね。
ちなみに、洋品店のおばちゃんは、桃井かおり。
主人公は別に誰でもいい。っていうか、居ないねこんな凄い女優。
この映画のテーマは、きっと「依存」と「共存」だ。
主人公の亡き夫は生前浮気してて、主人公もそれを知ってたかもしれないけど、そんな夫の「いいの想い出の雰囲気」にすがるようにして、新しい街であり、夫の故郷である密陽に引っ越すことが、主人公の一つ目の依存。まぁ、夫への依存でしょうかね。でも、具体的にどうして夫の故郷でないといけないのかは、劇中では語られていない。たぶん、抽象化、美化した「死んだ夫」のイメージに依存しているという事なのかもしれない。
そして、新しい街で再出発しようとするが、息子が殺されて、深い悲しみと混乱の中キリスト教に入信する。これが二つ目の依存。
そして、最終的に主人公が何もかも失って、それでも生きてゆく時に、隣に残ったものは果たしてなにか?
それがこの映画のポイントであると思う。
邦題が「シークレット・サンシャイン」とかいって、若干ミステリアスなフレーバーを醸し出しているけど、何の事は無い、舞台になっている街の名前であり、原題でもある「密陽(ミリャン)」を英語にしただけでしょ。なんかさ、「シークレット・サンシャイン」とか言うと、宗教っぽいから、そういう風なテーマかな?って思ったけど、ただの猫だましでした。
確かにね、韓国に置けるキリスト教や、ともすると「宗教」や「信仰」そのものを痛烈に批判した映画にも見受けられますよね。
でもこれ、別に「宗教」じゃ無くても代替え可能ですよね。
「ビジネス」でも「マスメディア」でも「戦争」でも「恋愛」でも。
この「依存」と「共存」を主軸に構築したロジックなら、
何本でも映画とれるんじゃないかと思いました。
しかしながら「神」という抽象の極みのようなモチーフだけは、どうしても代替え出来ないから、せめてこの世には無いもの、つまり「故人」というもので代用する感じになるのでしょうかね。どうすかね?
「密陽ってどんな街?」
「どこにでもある普通の街だよ。」
こんなやりとりが、映画の最初と最後の2回出てきますが、
つまりこれは、人間が集まってが暮らす「街」というものは、
あなたにとって、とりわけ特別なところではなく、
ただの「街」なのだという事を言っているように思えました。
ただ、無自覚に親切で、無関心で、
愛も、理想も、奇跡も起こらない、当たり前の街。
おせっかいや、無関心が、仲間はずれや、下心が一通りある街。
世間というものは、なにで出来ているか。
神ではなく、隣人で出来ている。
隣人を愛するというよりも、
隣人と共存してゆくということ。
イ・チャンドン監督!よかったです!