映画「シークレット・サンシャイン」魂は救われないし愛も神様もない。だとしても大丈夫。

2010/07/04 シークレット・サンシャイン イ・チャンドン ソン・ガンホ
映画「シークレットサンシャイン」を観ました。主演の女優、チョン・ドヨンさんが凄いお芝居をしています。名演とはこのことですね。
交通事故で夫に先立たれた中年の女と、まだ5歳くらいのその息子が、夫の生まれ故郷の街「密陽(ミリャン)」に引っ越してくるところからこの物語ははじまります。


この映画は、罪と罰の話でも、宗教の話でも、家族の話でもなく、なんというか、もっと身近であたりまえな事がテーマだと思いました。なんか世の中には「あたり前だけど大切な事」っていうのがあり、子供の頃や若いときにはちっとも実感できないんだけど、年齢を重ねるとわかるようになるじゃないですか?例えば「勉強しとけ」とか「貯金しとけ」とか。親とか先輩とか、いわゆる年上の人の言う事は基本的には間違っていないな。と。
そういった「あたり前だけど大切な事」を表現するために、ここまでやるかイ・チャンドン。といった感想です。

この映画のストーリーはショッキングかも知れません。夫に先立たれ、息子も殺されて、神様への信仰で一度は救われるが、やがてそれすらも信じられなくなる主人公。精神が病み、狂ってしまう。その女を演じる女優の演技がハードです。

この映画が伝えようとしている事は、主人公が、洋品店の女主人と話すシーンに集約されていると思いました。特にラストシーン。
洋品店の女主人は何回か登場します。
・主人公が引っ越して来た日に挨拶に行くシーン
・美容院で陰口言って鉢合わせちゃった気まずいシーン
・寄り合いのカラオケで意気投合するシーン
・明るくなった主人公と飯食っておしゃべりするシーン
・主人公の退院後、洋品店の前でお喋りするシーン

最後の主人公の退院後、洋品店の前でお喋りするシーンで、「そうだよな、そういう事だよな。」と私は深く頷いたのでした。精神病院から退院したばかりの主人公が散髪の途中で美容院を飛び出したせいで、髪型がおかしな事になっているのを見て、女主人「その髪どうしたの!?」主人公「…気に入らないから途中で出て来ちゃった。」女主人「は!?頭おかしいんじゃないの?…あ、あらヤダごめん。」こんな感じの会話で、2人は道ばたで笑うのである。主人公はここでやっと笑顔になるのである。こういう事ですよ。これこそが、いわゆる「隣人」というものの本質なんですよ。

それよりさ、ソン・ガンホね。

ソン・ガンホが演じるキャラクターが非常に重要なんです。下世話で能天気で無責任で、事態を少しも理解していない男。よかれと思って、主人公にいろいろとおせっかいを焼くが決して100%の善意ではなく、半分以上が下心である。このストーリーに置ける主人公の置かれている状況を特に我が事のようには感じていない。「まぁ大変だろうけどさ、どうにかなるだろ。タバコがうめぇ。」そんな軽いノリ。しょっちゅう母親から電話かかって来て、ちゃんと食べてるか?とか、おせっかいを言われてて、うるせぇなもう、喰ってるよ!忙しいからもう切るぞ!とか。こいつのシーンこの物語に必要か?とか思ったけど、いやいや、これがかなり重要。この男は「世間」や「コミュニティ」というものを体現しているキャラクターだとおもいました。この映画で言えば、この男こそが「韓国」なんだと思います。
世間ってやつは無自覚に親切でいて、同時に無関心でもある。無自覚に求め、無自覚に突き放す。決して相手の事を理解し、愛し、救ったりはしない。一緒に苦しんだり、代わりに犠牲になったりもしない。そういう大きなものを、このソン・ガンホは演じている。

この映画のテーマは、きっと「依存」と「共存」。
主人公の亡き夫は生前浮気してて、主人公もそれを知ってたかもしれないけど、そんな夫の「いいの想い出の雰囲気」にすがるようにして、新しい街であり、夫の故郷である密陽に引っ越すことが、主人公の一つ目の依存。まぁ、夫への依存でしょうかね。でも、具体的にどうして夫の故郷でないといけないのかは、劇中では語られていない。たぶん、抽象化、美化した「死んだ夫」のイメージに依存しているという事なのかもしれない。そして、新しい街で再出発しようとするが、息子が殺されて、深い悲しみと混乱の中キリスト教に入信する。これが二つ目の依存。そして、最終的に主人公が何もかも失って、それでも生きてゆく時に、隣に残ったものは果たしてなにか?それがこの映画のポイントであると思う。
邦題が「シークレット・サンシャイン」とかいって、若干ミステリアスなフレーバーを醸し出しているけど、何の事は無い、舞台になっている街の名前であり、原題でもある「密陽(ミリャン)」を英語にしただけでしょ。なんかさ、「シークレット・サンシャイン」とか言うと、宗教っぽいから、そういう風なテーマかな?って思ったけど、ただの猫だましでした。
確かにね、韓国に置けるキリスト教や、ともすると「宗教」や「信仰」そのものを痛烈に批判した映画にも見受けられますよね。でもこれ、別に「宗教」じゃ無くても代替え可能ですよね。「ビジネス」でも「マスメディア」でも「戦争」でも「恋愛」でも。この「依存」と「共存」を主軸に構築したロジックなら、何本でも映画とれるんじゃないかと思いました。
しかしながら「神」という抽象の極みのようなモチーフだけは、どうしても代替え出来ないから、せめてこの世には無いもの、つまり「故人」というもので代用する感じになるのでしょうかね。どうすかね?
「密陽ってどんな街?」
「どこにでもある普通の街だよ。」
こんなやりとりが、映画の最初と最後の2回出てきますが、つまりこれは、人間が集まってが暮らす「街」というものは、あなたにとって、とりわけ特別なところではなく、ただの「街」なのだという事を言っているように思えました。ただ、無自覚に親切で、無関心で、愛も、理想も、奇跡も起こらない、当たり前の街。おせっかいや、無関心が、仲間はずれや、下心が一通りある街。
世間というものは何で出来ているか。
神ではなく、隣人で出来ている。



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さかがみ

うちの大学に少し前に特別客員教授としてイ・チャンドン来てました。
イーゴンさんの言う通り、宗教がどうとかの話ではないく、日常的なものだといっていました。
自分がシークレット・サンシャイン観たときはどうしても宗教に目がいってしまってその日常的な部分を見逃してしまってました。
今の話を読んでて、確かに!と納得した。
大学で映画ばっか観てたから映画くらい対等にイーゴンさんと話せるかと思ってましたが、まだまだでした。
出直してきます!

2010/07/05 (Mon) 00:22

イーゴン

この映画は凄くカチッと作られてて、
全ての要素が記号化されていましたね。
だから、最初の10分くらの母子のやりとりのくだりをみて、あ、この映画は全部に意味があって、無駄なところは無いんだろうな、って思って、そういう気構えで観ました。

劇中、一個だけ、気になるところがあった。それは、主人公が入信する事に決めるというシーンがなかったという事。
主人公が教会の集会で激泣きして、神父に頭触られて泣き止むってだけじゃ足りないぜ!って思いました。
神様に帰依するという、極めてパーソナルで心理的なインパクトをどのように演出するのか、固唾をのんでいただけに、すっ飛ばされてて、おっと!と思いました。
こういう部分にだったらCGとかエフェクト使ってもいいかな、って思ったけど、最後まで観て納得しました。
いらないんです。
あのシーンのメインは、泣いてる主人公じゃなくて、その後ろのソン・ガンホを撮ってるんだわ。

彼女がいかにして帰依するかなんて、どうでもいい事だよね。

それよりも、ソン・ガンホがどこまで彼女に干渉してくるか、どんな場所にまで立ち会う存在なのか、という事を描くべきだと判断して、あの教会のシーンがあるんだろうね。
たぶんね。

2010/07/05 (Mon) 01:15




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