しずかなる

2010/07/28
世の中には「恋に落ちる」なんて言葉がございます。

 「落ちる」という部分があらわしますように、恋と言うものは
自分ではコントロール出来ないものでございます。
「巻き込まれる」とか「襲われる」といった類いのものでしょう。
予期せず、空から落ちてきたかのような突然の感情。
一目惚れ、なんてのはそういったものでしょうね。

かれこれ10年前、住所不定の折、私は例によって人の部屋で
ああでもねぇこうでもねぇと、過ごしていた夏の事でした。

「夏はファンタ。」

無類のファンタ好きの私は、やはりこの日も朝起きたらファンタ。
近所の自販機に小銭をチャラつかせて向かったのです。
この当時、私には恋人も意中のあのコもいない、
非常に色気の無いつまんない時期でした。

夏はココロの鍵を、甘くするわ、ご用心。


ご用心?
何を言ってんだ、夏は鍵開けっ放しでいきましょうよ。
夏はファンタと不用心。そういうものです。
早い話、私、出会いを求めていました。

出会いは、スローモーショーン

そんな感じの歌を口ずさみながら、
自販機に120円を投入しファンタ・ピーチを購入。
ラジオ体操が終わるくらいの早朝でした。
まだ人通りも少ない道ばたにしゃがみ込んで、
ファンタでノドを鳴らしていたその時でした。

何かギッシリつまった、大きな伊勢丹の紙袋をカゴと、
両方のハンドルの端、計3つをぶらさげて、
今にも倒れそうにゆっくりと自転車がこちらに近づいてくる。
女子でした。かわいらしい女子でした。
細かいとこは覚えてませんが、
とにかく、女子でした。

「出会いは~、スローモーショーン~♪」

聞こえました。i-podから聞こえました。
私は念じました。

『マガレ、マガーレ、』(ユリ・ゲラー風)

私の念力は子供の頃から定評があり、
スカートの中を見たいと念じれば
すぐさまスカートはひらりとめくれ上がり、
白か黒かをはっきりさせる事が、度々出来たものです。

一度、高校の時に念力でめくったスカートの中身、
その尻のバックプリントに、

「うちのタマ知りませんか」

と書いてあって「そうですか。」と思った事があります。


ともかく、ものすごく不安定な自転車に乗った女子。
それは、マンガに出てくる「そば屋の出前」くらい、
危うい魅力をもったものでした。

『倒れろ!倒れろ!』と念じる私。
次第に私達の間の距離は近くなる。
そしてちょうど、しゃがんだ私の前を通り過ぎようとした時、
一陣の風が吹く。


自転車は紙袋の重みについにバランスをとられ、横転。


「大丈夫?!」

忍者より素早く彼女に走りよる私。
3つの大きな紙袋の中身は、全部、本でした。
たくさんの本が道路にブチ巻かれた状態。

幸い早朝で車の通りは無い。

「ケガとか大丈夫?」心配する私。
「すいません。」と彼女。

もう、昼のドラマかマンガのようでした。
散らばった本をかきあつめる二人。恋のはじまり。
後に語られる、出会いのエピソードってやつですよ。
ともかく二人は出会い、物語は始まった。
助かりました、お名前は、とか聞かれねぇかな?
聞かれなくても、言っちゃおうかな。
とか考えながら本をひろう。
しかし、なんか、どうもおかしい。

拾い上げる本、拾い上げる本、その全てが、
マンガ『静かなるドン』。

まだ散らかった辺りを見回すと、やはりその全てが
マンガ『静かなるドン』。

なんだろう、この気持ち。俺、ドキドキしてる。
吊り橋と恋の誤作動。脳の手違いを感じる。

しかし、これは出会いだ。恋のプロローグだ。
なのになんだよ!『静かなるドン』って!もう!
なに?どういう状況なの?

とりあえず私は聞いてみた。

「あの、静かなるドン、お好きなんですか?」
なのに彼女は「すいません、すいません。」
と、あやまってばかり。

なんだ?早朝に静かなるドン全巻持って、どこ行くんだ?
ブックオフ、まだ開いてねぇぞ!
じゃあなに?この人作者か?

混乱の中に固まる私を尻目に、
彼女は全てをまた紙袋につめこみ、
よろよろと、自転車に乗り、
そそくさと去って行った。

私はまた当初の「しゃがみファンタ」の状態にもどり、
呆然と、ただただ呆然としたのでした。

これ以上無い女子との出会いを『静かなるドン』にかき消され、
これがどういう類いの話なんだかわかんない事になってますが、
ただ、あの袋の中身が『静かなるドン・全巻』でさえなければ、

素敵な恋のストーリーが、始まっていたはずなのです。
始まっていたはずなのですよ。



静かなるドン 95 (マンサンコミックス)
新田 たつお
実業之日本社 (2010-06-29)

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