イーゴン自治区

込み入った問題の山フェチ/ドラゴンタトゥーの女

2012/02/29 デヴィッド・フィンチャー ドラゴンタトゥーの女
デヴィッド・フィンチャー監督の新作映画ってことで、本日は「ドラゴン・タトゥーの女」を"わざわざ映画館で1,800円も払って"見に行ってきた。2時間40分くらいだった。




かつては映画狂少年だった私も、大人になってからは全然映画館に足を運ばなくなった。理由は2つ。「2時間は長い」という点と、「1,800円は、高い」という点だ。
つまんない大人になっちまったもんだ。

ともあれ、今日は来たぞ。
信用できる友人達のおすすめだ。来たぞ。
あと、デヴィッド・フィンチャーは別格だ。「ベン・ハー」ばりの長尺でも、私は観る。

平日の昼間、地方の映画館ということもあって、劇場に入ると観客はだれもおらず、私はど真ん中の席に腰をかけた。
私の後にチャラい高校生のカップルが一組と、シャカシャカウインドブレイカーをきたおっさんがひとり、そして、久しぶりに実家に帰ってきたとおぼしき50代くらいの女とその老いた母親(推定70代)の2人組が「母ちゃん、たまには映画でも観に行こかね?」という感じの温度感で、パラパラと入ってきた。
高校生カップルは、随分と後ろの席でイチャイチャ。シャカシャカ親父は私の右隣。おばちゃん&おばあちゃんは、2人とも、頭にすっぽりと被れるくらい大きなサイズの紙カップ容器に盛られた、溢れるほどのポップコーンをトレイに乗せ、こぼれないように両手で慎重に運びながら、ぜんまいカラクリお茶運び人形のように、ゆっくりとやってきて、私の左隣の席に並んで座った。

2人とも山盛りポップコーンをトレイに乗せているもんだから、座席に座ってもトレイを持ったままだ。トレイを傾けるとポップコーンはこぼれてしまう。しかし、両手が塞がっているため、少しでもポップコーンを食べて量を減らすという作戦もままならない。2人ともその状態だもんだからお互いに助け合ってなんとかすることも、やはりままならないようだ。

老いた母:「やっぱり、おぼん、いらんかったかいね?」
老いた娘:「いらねって、だから言ったじゃん!」

もめていた。
ポップコーンの山を挟んで、女達がもめていた。

やめよう。これ以上彼女達を気にするのはやめよう。なにしろフィンチャーの新作だ。久しぶりに映画館にやってきたのだ。私はできるだけ集中して、これから始まる2時間半の長丁場に挑みたいのだ。

新作映画の予告や、「ストップ映画泥棒!」など、おなじみの前菜を済ますと劇場のオレンジ色の灯りも消え、いよいよはじまった。これだ↓。


すっげ、カッコいい!よかった、スクリーンに見に来てよかった!
「いやぁ、映画って本当にすばらしいものですね!」と、誰かに同意を求めるようにチラリと左を見るとどうだ、「こんなはずじゃ。。。」と言わんばかりの、にがい面持ちの女達(まだ山ポップコーンあり)。

考えてみりゃ、おばあちゃんが観る映画じゃないよなこれ。スクリーン間違えちゃったかな?「ALWAYS 三丁目の夕日」は、隣の6番スクリーンですよ。アーメン。

その後、結構強めの性的なシーンや暴力的なシーンが立て続けにスクリーンを彩ったが、彼女達は最後まで席を立たなかった。映画が終わって見てみると、あのポップコーンはすっかり無くなっていた。いつどうやって食ったのか、少し不思議(SF)。


私はデヴィッド・フィンチャーの作品は、ずっと大好きで「ほとんど」観ている。「ほとんど」というのは、前作の「ソーシャルネットワーク」を観ていないからだ。
私はインターネットにかかわる仕事をしているため、公開当時は、なんかちょっと観る気になれなかったのだ。ただ、今日観た「ドラゴンタトゥーの女」がかなり良かったので、ブルーレイで観ることに決めた。



私はいつも、フィンチャーの新作観る前にいつもこう思う。
「今回は、どんな作品で"アレ"をやるのだろうか。」

作家には「作風」というものがあるが、「テーマ性」や「題材」といった、"描かれる内容"に重きが置かれて、その作品や作家のユニークさ(独自性)を語られる場合が多い気がする。

フィンチャーの場合はどうか。
私がデヴィッド・フィンチャーに対して常々感じていたのは、彼は言わば「込み入った問題の山フェチ」であり、彼の作品にはいつも決まって大量の手書きの文字や古い写真などの資料や資材、迷路のような込み入った建物、といったモチーフが現れ、映画のタイムラインが埋め尽くされる。そして、登場人物は眼前に現れる「謎」という壁の前に立たされ、その謎に分け入って行く。

モチーフとなるビジュアルの風合いのバリエーションも多様だ。彼が好むモチーフである「写真の資料」にもいろいろある。紙に焼いた古い写真、ネガフィルム、警察の調書の写真、事件現場の鑑識用の写真、身分証明のために取られた写真、などなど。必然的にそれぞれ風合いが異なる。今回はMacBookの画面に標示されるのデジタルフォトがたくさん出てきていた。なるほど、本作はソニー・ピクチャーズの配給なのに、VaioじゃなくてちゃんとMacBookが使われていた理由がよくわかる。フィンチャーは、Macのインターフェース特有の、あの写真の表示具合や風合いをどうしても使いたかったのだろう。
その他にも、本作では、大量の押し花の額装や、お得意の、壁に貼られる人物相関図、監視カメラの粗悪な映像、などなど、テクスチャの異なる「画像」のコラージュが大爆発していた。

このように、フィンチャーの作品はいつも「資料」と「込み入った状態」が主役だと思うし、私はそれが大好きだ。
私が期待する、「今回は、どんな作品で"アレ"をやるのだろうか。」という、この"アレ"とはつまり、「資料」と「込み入った状態」のことであり、これらを出来るだけ多く含む事が出来る器として、どのような題材(原作)に乗せるのか?という期待である。

「セブン」や「ゲーム」や「ゾディアック」では、このようなコラージュはストーリーの器に必然性を伴った状態でちゃんとハマっていて、非常に相性がよかった。「パニックルーム」や「ファイトクラブ」では、あまり顕著ではないが、しっかりとフィンチャーの変態性が編み込まれていた。「ベンジャミンバトン」はちょっとわかんない。CGの練習かな?

問題は「ソーシャルネットワーク」だ。これはまだ見ていないが、トレイラーを見る限り、なるほどそこに目を付けたか!と納得した。facebookのプロフィール写真だな。顔、顔、顔、顔の画像だ。そして込み入った関係とネットワークが主役。たぶん。

このように書くと、フィンチャーを、ただの視覚的なコラージュ&モンタージュマニアのように思われるかもしれないが、本作「ドラゴンタトゥーの女」のあるキャラクター主人公に発するセリフで、こういう感じのセリフがあった。

「君は嫌な予感がしたはずだ。それなのに君はその中に入ってきた。私は無理強いなどしていない。」


「セブン」のモーガン・フリーマンも、子供を産むのを恐れる主人公の妻に対して、こんなに野蛮で込み入った世の中で子供を生むことについて、同じような意図のセリフを言う。「ゾディアック」にもこういうセリフがある。

つまり、フィンチャーはただのビジュアリストというだけでなく、テーマとしても、山のような問題や謎や暗闇を抱えた世界の渦中に自ら分け入ってしまう人間のややこしさと、その向こう側にあるもの、について描こうとしているのだろうな、と私は感じる。


映像というメディアは、雑然とした大量の情報をそのまんま丸ごと表現出来る唯一のメディアである。
文学や音楽では到底できない表現。

デヴィッド・フィンチャーは、この、映像ならではの特性をストレートに使う。
山のような視覚情報を森や迷路のように込み入った状況をそのまんま、スクリーンにぶち込んでくる。

これがエンターテイメントとして楽しめる作品になるかどうかは、原作(器)との相性。その点でいえば、この「ミレニアム ドラゴンタトゥーの女」は、フィンチャーとの相性はバッチリ。神。

1,800円は高くない。

コメントをどうぞ。 現在2件

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イーゴン

>越前

観てみてよ。面白いかどうか、ってことよりも、「フィンチャー祭」っていうかんじですね。次回作も見たくなる。
あと、主役のリズベットが愛おしい。

ソーシャルネットワーク、貸して。

2012/02/29 (Wed) 19:04

越前

No title

俺も観に行きます。
ソーシャルネットワークは貸すよ?

2012/02/29 (Wed) 02:32