ぼくたち、新しさと共にあらんことを
2012/04/18
6年間の東京での生活に区切りをつけ、地元の新潟に舞い戻ってきたのは今年の2月。我が子が生まれるという事がきっかけになったわけであるが、それにしても、仕事も含めて生活環境が丸ごと変わるという事が、私に対していかほどの刺激となるかを実感するのはこれからであろう。ポジティヴな変化もネガティヴなストレスもひっくるめて、大きな変化となる事は容易に想像出来る。
気候の変化、住環境の変化、交通手段の変化、仕事や人間関係の変化。
家族が増える事による、喜びと苦労。愛と時間と金。
私は遠かれ近かれ、これまでに、9回の引っ越しを経験している。
「移住」というものに関しては、あまりストレスを感じない。
むしろ、リフレッシュされる感じがあって好きだ。
しかしながら、人生は流れず、それは積み重なるものである、といったどこかのご先祖様の言葉にもあるように、ある側面からみれば、私の人生はまるで、使い捨てのようにログをリセットしながら消費しているようにも見えるだろう。
代々受け継いだ、その土とともに幾度も季節を過ごし、やがてその土に還るという人生もある。さらに、このようなライフプランが「まっとう」であるという価値観も、非常にスムーズに理解することが出来る。
価値観の多様性を認めるという事自体が、ある保守的な人々にとって心理的に困難であるように、また、「かくあるべし」という様式と価値観の固定化自体を無差別に無分別に拒絶する人々も、同時に存在する。
ただ、このような状況自体、昔からあり続けた状況であり、むしろこういった状態こそ健全な状態なのだという寛容さこそが、いわば「生物多様性の肯定」であると思う。
憂鬱かつ具体的な話で思い当たる事で言えば、原発をめぐる昨今の「利権」についても、同様の事を思う。
私は昔、某新聞社で夜勤のアルバイトをしていた事があった。何人かの若者が代わりばんこにシフトを回していた。楽な仕事で給料も良かったので、司法試験を控えた学生など、「勉強する時間も欲しいし金も欲しい」という贅沢な条件を満たせる、超お得なバイトである。従って、私たちはなるべく多くのシフトを入れてもらえるように、日々、バイトリーダーと交渉していた。つまり、食い扶持を穫り合う小競り合いがそこにはあったが、一応は皆満足した状況でバランスを保っていた。
ある日、その新聞社の中で、定年後の社員の受け入れ先が必要になった。年金の受給年齢が5年先送りになった年の出来事だ。
我々の職場にも、60歳のじいさんが送り込まれた。
もちろん、シフトは再分配され、このバイトだけで喰ってた苦学生達は、これだけでは暮らして行けなくなった。新人のじいさんはわがままだったし、皆に疎まれた。
私はこの胸くそ悪い状況が嫌で、バイトをやめた。
私の抜けた時間は、その司法試験を控えた学生にやってくれ、という条件で身を引いた。
小さな餌場で食い扶持を穫り合う、そんな状態に陥ると、利権構造が生まれる。
「原発」という、大きすぎて具体的な関連ビジネスが見えにくい事業においても、つまるところ上記の話と一緒なのではないかと思っている。「原発」を廃止する事で失われる利権がある。それを阻止しようとする者が存在するのは当然である。
利権構造なんてものは何処にでもある。クラスに美少女が転校してくると、昨日までのNo.1モテ女子の利権が失われる。そんなもんだ。
彼らに新しい餌場を用意する。
彼らに新しい立場を用意する。
彼らに新しい価値を見いだす。
つまり、ここでの利権は失ったけど、向こうには素敵なサムシングがあるかもしれない、という希望を感じさせる事が重要なのだと思う。新しいほうへ。明るいほうへ。
これが出来なければ、怠け者の私たちは、いつまでも食いつぶし合うだけだ。
新しい価値を生み出す目的は、このような醜く滑稽な争いを終わらせることにある。
クリエイションに、それ以外の存在意義は、無い。
新しい事が必要な場所はどこだ。
ここだ。
気候の変化、住環境の変化、交通手段の変化、仕事や人間関係の変化。
家族が増える事による、喜びと苦労。愛と時間と金。
私は遠かれ近かれ、これまでに、9回の引っ越しを経験している。
「移住」というものに関しては、あまりストレスを感じない。
むしろ、リフレッシュされる感じがあって好きだ。
しかしながら、人生は流れず、それは積み重なるものである、といったどこかのご先祖様の言葉にもあるように、ある側面からみれば、私の人生はまるで、使い捨てのようにログをリセットしながら消費しているようにも見えるだろう。
代々受け継いだ、その土とともに幾度も季節を過ごし、やがてその土に還るという人生もある。さらに、このようなライフプランが「まっとう」であるという価値観も、非常にスムーズに理解することが出来る。
価値観の多様性を認めるという事自体が、ある保守的な人々にとって心理的に困難であるように、また、「かくあるべし」という様式と価値観の固定化自体を無差別に無分別に拒絶する人々も、同時に存在する。
ただ、このような状況自体、昔からあり続けた状況であり、むしろこういった状態こそ健全な状態なのだという寛容さこそが、いわば「生物多様性の肯定」であると思う。
憂鬱かつ具体的な話で思い当たる事で言えば、原発をめぐる昨今の「利権」についても、同様の事を思う。
私は昔、某新聞社で夜勤のアルバイトをしていた事があった。何人かの若者が代わりばんこにシフトを回していた。楽な仕事で給料も良かったので、司法試験を控えた学生など、「勉強する時間も欲しいし金も欲しい」という贅沢な条件を満たせる、超お得なバイトである。従って、私たちはなるべく多くのシフトを入れてもらえるように、日々、バイトリーダーと交渉していた。つまり、食い扶持を穫り合う小競り合いがそこにはあったが、一応は皆満足した状況でバランスを保っていた。
ある日、その新聞社の中で、定年後の社員の受け入れ先が必要になった。年金の受給年齢が5年先送りになった年の出来事だ。
我々の職場にも、60歳のじいさんが送り込まれた。
もちろん、シフトは再分配され、このバイトだけで喰ってた苦学生達は、これだけでは暮らして行けなくなった。新人のじいさんはわがままだったし、皆に疎まれた。
私はこの胸くそ悪い状況が嫌で、バイトをやめた。
私の抜けた時間は、その司法試験を控えた学生にやってくれ、という条件で身を引いた。
小さな餌場で食い扶持を穫り合う、そんな状態に陥ると、利権構造が生まれる。
「原発」という、大きすぎて具体的な関連ビジネスが見えにくい事業においても、つまるところ上記の話と一緒なのではないかと思っている。「原発」を廃止する事で失われる利権がある。それを阻止しようとする者が存在するのは当然である。
利権構造なんてものは何処にでもある。クラスに美少女が転校してくると、昨日までのNo.1モテ女子の利権が失われる。そんなもんだ。
彼らに新しい餌場を用意する。
彼らに新しい立場を用意する。
彼らに新しい価値を見いだす。
つまり、ここでの利権は失ったけど、向こうには素敵なサムシングがあるかもしれない、という希望を感じさせる事が重要なのだと思う。新しいほうへ。明るいほうへ。
これが出来なければ、怠け者の私たちは、いつまでも食いつぶし合うだけだ。
新しい価値を生み出す目的は、このような醜く滑稽な争いを終わらせることにある。
クリエイションに、それ以外の存在意義は、無い。
新しい事が必要な場所はどこだ。
ここだ。